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「…それで顔を腫らして、目は泣き腫らして帰ってきたわけだ。」
影之は氷で玲生の顔を冷やしてやりながら言った。
仕事を終えてから、また弓家の家に上がり込んでいる影之だった。
「本当に胸糞の悪い奴だぜ。」
影之は憤懣やるかたないといったふうに言葉を吐き捨てる。
徳衛の表情も険しい。
「おまけに恥も知らんらしいぞ。おまえが帰ってくる前に電話をかけてきおって、いったいどういう教育をしているのか。息子に悪影響を与えているようだから厳重に注意するようにと言いおった。」
徳衛の言葉に玲生は開いた口が塞がらない。
「…だとよ。」
影之も大袈裟に呆れてみせる。
「よくも、そんなことを!」
叫んだ拍子に傷がひきつれ、玲生は痛みに顔をしかめる。
「つまりはそういうことなのだ。儂らが何を言おうと、知らぬ存ぜぬで通すと。仮に儂らが告発したとしても、事実を立証してみせねばならん。下手をすれば、瑞希くんを救うどころか、かえって傷つけることにもなりかねん。いずれにしても瑞希くんが自分から義父を拒絶する決心をしない限りどうにもならん。」
「そんなの無理だよ。俺は瑞希を説得する自信なんてない。何かを言う度に瑞希を傷つけているようで。」
玲生と徳衛が黙り込んでしまうと、今まで聞き役にまわっていた影之がきりだす。
「やはり母親に知らせるべきなんじゃないのか?どんなにか弱くたって親なんだから。自分の息子がそんなことされてて結婚生活を続けるなんて考えられないぜ。仮に夫を愛しているとしてもだ。」
「俺もそう思う。それに俺には瑞希のお袋さんがあの男を好きで結婚したなんて考えられない。なんか瑞希達の幸せだけを考えてるって感じで。」
玲生は瑞希の様子を熱心に聞いていた母親を思い出しながら言った。
「しかし、話しても信じてもらえるかどうか。義理の父親が娘を、というのなら聞いたことがあるが。普通では考えられんからの。」
一般論を持ち出す徳衛に影之が横やりを入れる。
「いや、じいさん、最近はそうでもないらしいぞ。この間、小学校の男性教諭が男子生徒にいたずらしたって新聞の三面記事にあったし、ここにいる誰かさんもそうだし。」
「影之!今はそんなことを話している場合じゃないだろ!」
本筋から離れそうになった話題を玲生が怒って戻そうとするが、電話のベルによって話し合いは中断された。
玲生はぶつぶつ文句を言いながら、電話をとるために席を立つ。
しかし、居間に戻ってきた玲生は意気消沈していた。
「吉岡範士がお亡くなりになった。」
敬愛する弓術師範の訃報に、三人の心は重く沈んだ。
吉岡範士の葬儀は二子玉川の自宅でしめやかに行われた。
弔問客が大勢訪れ、生前の吉岡範士の人柄が偲ばれた。
瑞希も母親とともに葬儀に参列していたが、親族以上に落胆した様子だった。
玲生はその様子を離れたところから見ながら、瑞希を力づけることはおろか、側にいることさえできない自分が情けなかった。
最後まで瑞希のことを案じていたであろう吉岡範士のことを思うと、尚更、玲生はいたたまれない気持ちだった。
そして、それは徳衛も同じだった。
葬儀はそれぞれの思いをよそに滞りなく行われ、会葬が済むと留守居の者を残して、弔問客もそれぞれに引き取っていった。
瑞希は許しをもらって、裏手にある弓道場に別れを告げていた。
そこは瑞希が一番辛かった頃、弦音にひかれて訪れたところだった。
吉岡範士の弓をひく姿に心を打たれ、それから三年間教えを受けた。
既に高齢だった吉岡範士は瑞希の他に弟子を持たず、ある時は厳しく、ある時は優しく瑞希を慈しんでくれた。
瑞希は弓道場にたたずみ、声をたてずに泣いていた。
「瑞希。」
その背中に向かって、玲生は声をかける。
瑞希は振り返らずにこたえた。
「今日はおまえと言い争いをするつもりはない。場所柄をわきまえてくれ。」
「今日という日だからこそ、言っておきたいことがあるのだがね。」
玲生だとばかり思って返事をした瑞希は、徳衛の声に驚いた。
「おじいさん、どうして?」
瑞希は涙を拭って振り向いた。
そして、無言で非難するように玲生を睨む。
徳衛は単刀直入に言った。
「吉岡範士は知っておられたのだ。偶然であったそうだが、瑞希くんと義理の父親のことを。」
瑞希の顔から血の気が引く。
徳衛は残酷なことをしていると知りつつも瑞希の強さを信じて続けた。
「吉岡範士はそれを知りつつも、瑞希くんが自分で克服できると信じて見守っておられた。ご自分の余命が短いと悟られたとき、儂に託されたのだ。儂も黙って見守るつもりだったが、どうも状況が良くない方に向かっているようなのでね。吉岡範士は最後まで君の幸せを望んでおられたよ。今のままでいいはずがないことは、君が一番よく知っているはずだ。」
瑞希が何かを言いかけたそのとき、開け放たれた入口で物音がした。
そこには瑞希を呼びに来た母の姿があった。
「瑞希、いったい何の話をしているの?瑞希と父親の事って?」
その場にいた者全員が緊張に身を固くした。
瑞希が慌てて取り繕うとする。
「母さん、何でもないんだ。」
「何でもないわけないでしょう!今のままでいいはずがないってどういうこと?」
母は瑞希の返事に納得しなかった。
普段の母からは想像のつかない厳しさで瑞希に詰め寄る。
「瑞希、何のことなの?言いなさい!」
「その人は知る権利がある。いや、母親として知る義務がある。」
影之がそう言いながら弓道場に入ってきた。
瑞希と母は見知らぬ青年の登場に戸惑いを隠せない。
「誰だか知らないがあんたには関係ない。出ていってくれ。いや、俺が出ていく。」
瑞希がこの場から逃げようとするのを影之は許さなかった。
大きな身体で行く手をさえぎり、瑞希を押し戻す。
「君と母上には初めて会うが、俺は玲生の従兄だ。弓守影之という。確かに俺は第三者だが、どうもそこの二人が言いにくそうなんでね。出しゃばりとは知りつつも出てきたわけだ。」
「い、いったい何なのですか?さっきから瑞希も、あなた方も。私に何を隠しているの!」
瑞希の母が耐えきれずに叫ぶ。
その声は神経質に高ぶっていた。
「あなたの息子さんは義理の父親から性的虐待を受けています。」
瑞希が止める間もなく、影之は言った。
「…何ですって?」
瑞希の母は聞いたことが信じられないというように首を振る。
「信じられないかもしれませんが、彼は…」
瑞希は影之にそれ以上喋らせるつもりはなかった。
圧倒的な気迫で影之を黙らせる。
「見ず知らずの男がありもしないことを言うな!何で会ったこともない奴にそんなことを言われなくちゃならないんだ!母さん、帰ろう。馬鹿馬鹿しくて話にならない。ひどい中傷だ。」
瑞希の差しだした手を母は躊躇いがちに拒絶した。
胸の前できつく握りしめた手はぶるぶると震えている。
「何でもない中傷なら、あなたはどうしてそんなに慌てているの?お母さんはそんな瑞希を見たことないわ。本当…なのね。」
母の瞳からみるみる涙がこぼれ落ちる。
「いつから?いつからそんな…非道い!どうして言ってくれなかったの?私はそんなに頼りない母親だった?いいえ、そう。本当に情けない母親!瑞希がそんな思いをしているなんて少しも気づかなかった。私は瑞希があの人を父親として慕っているとばかり…それなのに!ごめんなさい、気づいてあげられなかったお母さんを許して。」
そうしていないと立っていられないように母は瑞希にすがりつく。
「ちがう!俺は母さんを悲しませたくなかったから。母さんの結婚を壊したくなかったから。母さんや恵梨花が幸せならそれでよかったから…」
「そんな!私はそんなことだと知っていたら、瑞希のために迷わず離婚したわ。だって、私とあの人は夫婦とは名ばかり、表面は仲の良い夫婦を装って。でも、私たちの間に愛情なんてなかった。私は…瑞希のために、恵梨花のためにと思って…」
瑞希は母の告白に自分の耳を疑った。
「何?母さんは何を言ってるの?母さんは幸せじゃなかったの?そんな…母さんも俺達のために我慢していた?それじゃ、俺のしてきたことは何だったんだ!」
瑞希は母の手を振り払うと弓道場を飛び出していった。
「瑞希!待って、瑞希。私は不幸だなんて思わなかった。瑞希達と一緒に暮らせるだけで私は幸せだったの!」
母の言葉は瑞希には届かなかった。
「それは俺が瑞希に伝えるから。瑞希は俺が無事に連れて帰るから心配しないで。」
言うが早いか玲生は瑞希を追いかけた。
徳衛と影之は崩れそうになる瑞希の母をささえた。
「お見苦しいところをお見せしてしまって申しわけありませんでした。」
瑞希の母が落ち着きを取り戻すと、徳衛はたずねた。
「これからどうされますかな。」
「主人とは離婚いたします。事実を知ってしまった以上、一日たりともあの人の元にいるつもりはありません。」
瑞希の母はきっぱりと言い切った。
「失礼ですが、頼る当てはおありなのですか?もし、よろしければ、私どものところへ。」
「いえ、これ以上そちら様にご迷惑をおかけしては。とりあえず、身の回りの荷物をまとめて瑞希が帰るのを待ちます。それから、ホテルにでも身を落ち着けて、今後のことを考えたいと思います。」
「そうですか。ですが、弁護士などもご紹介できると思いますので、どうか遠慮なくおっしゃってください。」
懸命に自分を奮いたたせていた瑞希の母は、徳衛の申し出にわずかに気が緩んだ。
いったんは止まっていた涙が、再び溢れる。
「何から何までご心配をおかけして申しわけありません。母親である私がしっかりしなければいけませんのに。瑞希の父親が亡くなったときも、再婚したときも、私が瑞希のために良かれと思ってしたことが、瑞希を不幸にしてしまったようで。」
肩をふるわせる瑞希の母に徳衛は優しく言った。
「あなたが愛情をそそいで育てた瑞希くんは決して不幸ではなかったと思いますよ。その証拠に彼は素直な強い心を持っています。たとえ、彼を傷つける障害があっても、それを克服できる強さを。そして、彼はその心の輝きゆえに誰からも愛される。私は瑞希くんが孫のように可愛くて仕方がないのです。できることなら何でも力になってあげたい。ですから、迷惑だなどと遠慮しないでください。」
瑞希の母は感に耐えない様子で深々と頭を下げた。
瑞希は物凄い早さで駆けていく。
脇目もふらずに道路を横切っていく瑞希に車が急ブレーキの音を響かせる。
玲生はその後を必死に追いかけていった。
瑞希がようやく立ち止まったのは多摩川の土手、人気の少ない草原を滑り降りる。
瑞希は荒い息をしながら、膝を抱えて座り込んだ。
やっと追いついた玲生は土手の上で脇腹を押さえ、身体を折り曲げて息を整える。
呼吸が落ち着くと静かに土手を下り、瑞希から少し離れたところに腰を下ろした。
瑞希は膝を抱えた腕に顔を埋めたまま、玲生は瑞希を視界にとらえて景色を眺めたまま、二人は何時間もそうして黙って座っていた。
陽が沈み、河原で遊ぶ子どもの姿も、犬を散歩させる人の姿もなくなる頃、玲生がかすかに身じろぎする。
何か話しかけなくてはと思う。
瑞希の母も心配しているはずだ。
玲生は囁くような声で瑞希に話しかけた。
「瑞希の本当の親父さんてどんな人かな。」
しばらくの沈黙の後、瑞希は顔を上げずに呟いた。
「俺が妹ぐらいのときに死んでるんだぞ。そんなの憶えているわけないだろ。」
玲生はまたしても自分の馬鹿さ加減に頭を抱える。
よりによって何という質問をしたのだろうと、二の句が継げない。
そのとき瑞希がはっと思い出したように顔を上げた。
「いや、俺は憶えている。顔は思い出せないけど、大きな手で抱きしめてキスしてくれた。俺はそうされるのが好きだった。」
瑞希は玲生に向かって言っているのではない。
自分の中で何かを確認するように呟いていた。
「そうだ、俺は抱きしめてキスしてほしかった。俺は!嫌だと言いながら、母さんを守るためだと言い訳しながら、あの男に抱かれることを望んでいたのか?俺は?自分から望んで?男に抱かれたかった?だから、あの男は俺を抱きたがったのか。だから男が俺をそんな目で見るのか?はっ!とんだ変態野郎だ、俺は!」
立ち上がり、頭をかきむしって自分を非難し続けようとする瑞希を玲生が押し留める。
「違う!瑞希はおかしくなんかない。瑞希は男に抱かれたかったんじゃない。瑞希は父親に抱かれたかったんだ。瑞希はあの男が父親の愛情で抱いてくれることを望んでいたんじゃないのか?」
玲生は瑞希の手首をつかみ、その瞳を見つめながら言った。
「それに瑞希は普通だよ。瑞希には彼女が、朝倉さんがいるじゃないか。」
玲生は言葉に自嘲めいた苦さを感じずにはいられなかった。
しかし、瑞希はそれを聞くと玲生の手を振り払った。
「彼女とはもう、つき合ってない。」
「え?ああ、あの男が交際を禁じたのか?でも、そんなことは…」
「そんなんじゃない!」
瑞希は玲生に背をむけて否定した。
「彼女にはとっくにふられている。俺といるのはつまらないって。」
玲生は自分の心に反して、瑞希を慰めようとする。
「それは彼女が瑞希のことを理解できなかっただけで、きっと、今に瑞希のことを本当にわかってくれる女の子が…」
「それだけじゃない!」
瑞希は悔しそうに玲生を振り返る。
「俺は弓道の話しかしないって。そして、二言目には玲生のことを話してるんだってさ。玲生、玲生っておかしいんじゃないのって言われたよ。満足だろ?俺はおまえの気持ちを否定してみせたくせに、俺はおまえのことばかり考えてるんだってさ。人に言われて気がつくなんて、笑えよ!」
瑞希は唇を噛みしめながら涙を流した。
玲生は少し悲しげな笑みを浮かべて瑞希に近づいていく。
「それが本当だったら嬉しいけど、たぶん違うと思うよ。瑞希はたまたま俺の名を口にしたのかもしれないけど、それは単に俺に代表される友達のことを言ったに過ぎないと思う。瑞希はおかしくなんかない。本当の親父さんに対する気持ちも。あの男に抱いた嫌悪と期待も。お袋さんを守ろうとした心も。俺の気持ちに対する態度も。みんな普通の反応だと思う。そんなに何から何まで自分を否定するのはやめろよ。」
玲生はそう言って瑞希をふんわりと抱きしめた。
それは抵抗できないほどの強さではなかったにもかかわらず、瑞希はされるままになっていた。
玲生は瑞希の耳元で囁く。
「人はどうして人を愛するんだろう?人を好きになることに理屈なんかない。同性を好きになったらいけない?どうして?男女で愛し合うのが恋愛だから?でも異性で親友同士の人もいる。人が人を愛するのに、男だから、女だからって理由が必要なんだろうか?この愛は正しくて、この愛は間違っているなんて優劣を誰がつける?それは当事者が決めることだろ?友情と恋愛の境界って何処にあるんだろうね?心だけで思うのが友情?肉欲を感じたら恋愛?俺にはわからない。ただ、わかっているのはその人が大切って事だけ。家族の愛、友達の愛、恋人の愛、形は違っても相手を大切に思うって事は同じじゃないのかな?お袋さんが瑞希に伝えてって。不幸なんかじゃなかったって、瑞希達と一緒に暮らせることが幸せだったんだって。」
瑞希は黙って玲生の声を聞いていた。
少し低音の、優しい響き。
それは玲生の弦音の音に似ていた。
そっと触れている玲生の身体から瑞希に伝わってくるのは、温かい体温だけではなかったかもしれない。
恵梨花はすやすやと眠っていた。
知人宅に迎えに行ったときは、母を待ちかねて半べそ状態だったけれど。
手近な荷物はもう、まとめ終えた。
母は恵梨花の天使のような寝顔を見つめながら瑞希の帰りを待っていた。
恵梨花の父親のことを思うと胸が痛んだ。
何も知らないこの子が不憫だった。
これから先のことを考えると不安に押しつぶされそうになる自分を叱った。
強くならなければと。
しんと静まりかえった家に、玄関のドアの鍵を開ける音が響く。
瑞希と名前を呼びかけて、母は身体を硬くした。
部屋に入ってきたのは予定より早く帰ってきた夫・雅美だった。
「どうしたんだ、いったい?瑞希はいないのか。今日は一緒に弓道師範とやらの葬式に行って来たんじゃないのか?」
雅美の目が部屋の隅に置いてあった荷物にとまる。
「あれはいったい何なんだ?」
瑞希の母は自分の声が震えるのを感じた。
「こ、この家を出ます。あなたとは離婚します。理由はあなたがご存じの筈。」
「おいおい、何を言っているんだい?仕事がうまくいって、家に早く帰ってこれたと思ったら何の冗談やら。」
雅美は理解のある夫のような微笑みを浮かべながら近づいてくる。
「近寄らないで!私の息子に恥知らずなことをしておいて、よくもぬけぬけと。でも、もうこれ以上あの子に指一本触れさせませんからね。これ以上あの子を傷つけたら許しませんからね。」
母親の強さを見せて夫に面と向かう。
普段の従順な妻からは想像もできない激しさに、雅美の顔色が変わる。
ついで、見たこともない夫の顔があらわれる。
「何を許さないって?瑞希に指一本触れさせないだと?そんなことは私の方が許さない。」
雅美は小柄な妻を楽々捕まえると、頭がちぎれそうなぐらい強く揺さぶった。
「瑞希を私から引き離そうとする者は誰だろうと許さない。瑞希の母親でもだ!子持ちの出戻りで肩身の狭い思いをしていたおまえを救ってやったのは誰だと思っている?今までさんざん楽をさせてやってきた私に対する仕打ちがそれか!」
雅美は妻の身体を壁にたたきつけた。
大きな物音に驚いた恵梨花が大きな声で泣き出した。
我が子の泣き声に母は気を失いそうになるのを耐えた。
「あなたに感謝などしない。その汚らわしい口で瑞希の名を呼ばないで。」
「その減らず口を聞けなくしてやる!」
雅美は妻の細い首を絞めた。
瑞希の母はか細い力で懸命にもがいた。
自分は死ぬわけにはいかない。
薄れゆく意識の中で火のついたように泣く恵梨花の声だけが聞こえていた。
徳衛に電話を入れて安心させると、玲生と瑞希は家で待っている母の元へと向かった。
ついて来なくていいという瑞希に対して、玲生は瑞希のお袋さんと約束したのだからと言ってきかなかった。
二人がマンションのエレベーターを降りて歩いていくと、厚い防音壁の向こうで物音がする。
かすかに小さい子の鳴き声も聞こえた。
嫌な予感に二人は駆け出していた。
瑞希は鍵を開けるのももどかしく、家の中に駆け込む。
その瞬間、目に映る恐ろしい光景。
「やめろ!母さんを殺す気か!」
瑞希は母の首から雅美の手を引き剥がした。
母親はその場にくずおれ、激しく咳き込んでいる。
瑞希の後から駆け込んできた玲生がその母親を介抱する。
「大丈夫ですか?」
弱々しく返事をする母親を助けおこし、泣いている恵梨花ともども他の部屋に避難させる。
「ここにいて恵梨花ちゃんを安心させてやってください。瑞希の方は俺が。」
母親は恵梨花を抱くと、行こうとする玲生の手をしっかりと握った。
「瑞希を!お願い!」
掠れた声で必死に頼む。
玲生は力強くうなずくと隣の部屋へ入っていった。
そこには形相の変わった雅美と瑞希が対峙していた。
入ってきた玲生を見ると、雅美は口汚く罵った。
「貴様のせいだ。貴様が野良犬のように瑞希のまわりをうろついて、私から瑞希を奪おうとする。」
そのぎらぎらとした目つきは狂気の兆しをみせていた。
瑞希を失うまいとする愛憎の深さに、玲生は背筋の凍る思いだった。
もしかしたら自分もこうなっていたかもしれないのだろうか?
玲生は一瞬、雅美に対する怒りを忘れた。
「私をそんな憐れみの目で見るな!瑞希を貴様などに渡すものか!」
つかみかかってきた雅美を、玲生は咄嗟によけることができなかった。
投げ飛ばされてサイドボードに叩きつけられる。
ガラスに頭から突っ込んでしまった玲生は、肩口から血を流しながら朦朧としていた。
「玲生!」
駆け寄ろうとする瑞希を雅美が捕まえる。
「そんなにあいつが心配か?私はだめで、あいつならいいのか?瑞希は私のものだ。瑞希は誰にもやらない。」
「俺は俺だ!誰のものでもない!」
瑞希は物凄い力でつかまれた義父の腕の中で叫んでいた。
瑞希の激しい拒絶に雅美の中で何かが壊れた。
「瑞希は私のものだ。瑞希は誰にもやらない。」
雅美の瞳は焦点を失っていた。
ぶつぶつと同じ言葉を繰り返す。
瑞希は悲しい気持ちで義父を見た。
力で蹂躙されることが嫌だった。
憎みたくても憎みきれなかった。
この男はどうしても自分を息子としては見てくれなかったのだ。
それでも、この自分にむけられた激しい感情は何だろう?
狂気に自分を委ねるほどに激しい思い。
男の思いの凄まじさに、瑞希は恐怖した。
「瑞希、おまえは誰にも渡さない。」
雅美は瑞希をひきずってベランダへ出た。
手摺に押しつけられ、首を絞められる。
風の強い夜だった。
建物をまわってきた強い風が瑞希の髪をなぶる。
耳元で鳴っているのは風の音か、堰き止められた自分の血流の音か。
「…こんな事をしたって…俺は父さんのものにはならない…」
「そう、でも、誰のものにもならない。一緒に行こう、瑞希。」
雅美は瑞希を捕まえたまま、自らの身体を手摺の向こうに乗り出した。
その二人の身体が宙に躍り出る刹那、玲生の手刀が雅美の腕を痛撃する。
一瞬の出来事に雅美の手が瑞希の首を離れる。
そして、二人の身体はバランスを失ったまま、手摺の向こうへ。
雅美は最上階のベランダから地上へと落ちていった。
それでも、その手は瑞希を捕まえようとするかのようにのばされ、虚しく宙をかいた。
鉤のように曲げられた指が雅美の執念をあらわしているようだった。
瑞希は手首を玲生につかまれて、手摺の外側にぶら下がっていた。
「早く、そっちの手もつかまれ!」
玲生もまた片手で手摺につかまり、上半身を乗り出して瑞希を捕まえていた。
玲生の肩から流れる血が腕をつたって瑞希に滴り落ちる。
「玲生、肩から血が…」
「そんなこといいから、さっさとそこに足をかけてよじ登れ!」
玲生は渾身の力で瑞希を引っ張り上げる。
ようやく瑞希の身体がこちら側にどさりと落ちると、二人は荒い息をはいた。
息がおさまっても二人はしばらく動くことができなかった。
人の思いの凄さを目の当たりにして、愛の歪んだ形を見せつけられて。
あれから既に一ヶ月以上の月日が過ぎ、真夏の青い空が梅雨空に取って代わっていた。
瑞希の母は玲生の父の会社で通訳として働くことになり、住まいもこぢんまりしたアパートに移った。
瑞希の母が仕事に行っている間は、徳衛が恵梨花を預かっている。
保育園に預けたのでは瑞希が弓道を続けることができなくなるという徳衛の配慮によるものだった。
しかし、玲生は徳衛が瑞希に会いたくて、恵梨花ちゃんを人質に取っているのだと言って笑う。
こうして玲生と瑞希のまわりは落ち着きを取り戻し、学校は夏休みに入っていた。
弓道部は富士の裾野にある学校付属の施設で合宿に入っていた。
弓道場はもちろんのこと、テニスコートからプールまで完備され、宿泊施設は四人部屋と二人部屋からなる快適なものだった。
玲生も肩の傷が完治して合宿に参加することができた。
瑞希にとって、去年は散々だった合宿も今年は楽しいものになっていた。
三年生が抜けたことで弓道部の雰囲気はがらりと変わっていたからだ。
それは規律が緩んだとかいうことではなく、新しい部長である杉森と副部長の小沢の性格によるものだ。
もともと偉ぶらない杉森と性格の明るい小沢によって、部員達は嫌々稽古をするのではなく、のびのびと弓道に親しみ、技を錬成させていた。
的前練習も、的前に立てる実力のある者が学年に関係なく入るようになった。
その結果、下級生は的前に立ちたいために、上級生は下級生の手前、うかうかとはしていられずに稽古に励むようになった。
このようにして弓道部の合宿は確実に良い成果を上げていた。
早朝から夕方まで稽古に明け暮れ、夜は合宿につきものの怪談や肝試しで友人たちと過ごす。
玲生と瑞希の二人に以前のような笑顔が戻ったと誰もが信じていた。
夜半過ぎ、宿泊所のベッドで玲生は夢にうなされて飛び起きた。
全身が汗で冷たくなっていた。
玲生は平穏な日々が続いている今でも悪夢にうなされる。
全てのことが解決したかにみえてはいても、玲生の心の問題は残ったままだった。
誰にも頼ることはできない。
自分自身で決着をつけることだと玲生は思っている。
しかし、それは口で言うほど簡単なものではなかった。
瑞希への思いを強く意識した日は特に夢を見る。
夢の中で瑞希を力づくで組み敷いている自分の姿。
瑞希の顔は恐怖に歪み、自分の顔には死んだ雅美の狂気があらわれている。
しかし、玲生の意識は犯される側の身体に入っている。
力に支配される屈辱。
根こそぎ引き剥がされる羞恥心。
粉々に砕ける自尊心。
蹂躙される心。
それを与えるのは自分の姿、それを受けるのは自分の心。
玲生は拒絶の叫びで目覚める。
同室で寝ている瑞希を起こしはしなかったかと息を潜める。
瑞希は静かな寝息をたてていた。
玲生は服に着替えて静かに部屋を抜け出した。
外に出ると、昼間の暑さが嘘のように涼しかった。
肌寒さを感じるほどの冷気は頭を冷やすのにちょうどよかった。
宿泊所の敷地を抜けて、湖の畔へつづく道を歩いていく。
月明かりが煌々と玲生の行く先を照らしている。
玲生は月の光を浴びながら、ふと思い出す。
いつかもこうして月明かりの下、頭を冷やすために外に出た。
あれは瑞希に自分の気持ちをうち明けた夜だった。
進歩のない自分を自嘲気味に笑う。
湖はひっそりと静まりかえっていた。
かすかな水音だけが繰り返し繰り返し聞こえる。
玲生は小さな石を拾って湖に向かって投げた。
石は滑るように水面を走ってから消えた。
二度と同じ過ちは繰り返さない。
あの男のような狂気には囚われない。
玲生は自分にそう言い聞かせると大きく息を吸った。
「湖に飛び込まないでくれて助かったよ。」
玲生は突然、声をかけられ、驚いて振り向く。
「以前もこんな事があったな。おまえは井戸水を頭からかぶっていた。あの時も夢を見たのか?さっきも…夢にうなされていた。」
瑞希は淡々とした静かな声で玲生に言った。
玲生は心の動揺を懸命におさえながらこたえる。
「瑞希を起こしてしまったか、悪かったな。消灯の前に怪談話なんかしたから変な夢を見てしまった。俺って臆病者。」
何でもないことのように笑ってみせるが、瑞希にそれを信じ込ませることはできなかった。
「玲生、無理に隠すのはやめてくれ。この間、駅で偶然、影之さんに会った。」
瑞希は少し躊躇ってから続けた。
「影之さんから、聞いた。玲生のこと。玲生が俺と同じように…」
「瑞希には関係ない!影之から何を聞いたのか知らないけど、これは俺の問題だ。」
玲生は心の中で影之を罵りながら、瑞希の言葉を遮る。
「おまえでも、そう言うのか?俺の心を癒そうとしたおまえが。人を大切に思う気持ちを俺に伝えようとしたおまえが。おまえが苦しんでいるのは俺には関係ないと!」
瑞希に言いかえされて、玲生は自分の態度を素直に詫びた。
「ごめん。それから、心配してくれてありがとう。でも、これはやはり俺の心の問題だから、自分で決着をつけないと。」
「あたりまえだ。他人が人の気持ちを簡単に変えられるもんか。そんなことは俺の方がよく知っている。でも、手助けをすることはできる。それをしてくれたのはおまえだろ?」
瑞希はそう言いながら、水際から少し離れた場所に腰を下ろした。
玲生もその隣の柔らかな草の上にすわった。
二人は何も言わずにしばらくそうしていた。
夜露に湿った草の匂いが風に漂い、黙り込んでいた虫たちが再び鳴き始める。
湖面にさざ波がたち、月の光がきらきらと輝いている。
「勘違いするなよ。俺はおまえを救えるなんて思っていないんだ。それに傷ついた者同士で傷を舐めあうつもりもない。」
「ああ、わかっている。」
「でも、嫌な記憶って消えてくれないものなんだよな。俺もよくうなされて飛び起きた。この頃はそうでもないけど、それでも、時々はある。」
瑞希は膝を抱えて、その上に顎をのせていた。
ふせた瞳に長い睫毛が影を落としている。
玲生は瑞希の横顔に映し出される心の傷を思って、しばし、自分の辛さを忘れた。
「やっぱり、まだ、思い出す?」
「うん、やっぱりね。学校にいるときとかは忘れてるんだけど、一人になると思い出す。嫌な記憶しかないんだから、仕方ないけどね。」
玲生の瞳が悲しそうに瑞希を見つめる。
「そんなこと言うなよ。嫌な記憶しかないなんて。楽しい記憶だってあるだろ?お袋さんや恵梨花ちゃんのこととか、杉森や小沢と笑ったときのこととか。」
「あるよ、優しい記憶。そう、憶えておくなら綺麗な記憶がいい。おまえもそうだろ?」
瑞希は玲生の頬に手を触れた。
月の色に縁取られた瑞希の瞳が玲生の漆黒の瞳を見つめる。
玲生は瑞希の、瑞希は玲生の瞳を、綺麗だと思った。
「おまえが俺に優しい思い出をくれよ。俺がおまえの綺麗な記憶になる。」
玲生は瑞希の瞳を見つめたまま、自分の頬に触れたその掌にそっと唇を押し当てた。
まるで神聖な儀式のように。
瑞希の身体がかすかにふるえる。
暁生はその肩を優しく抱いた。
虫の音に重なり聞こえてくるのは二人の吐息。
風が抱くのは二人の影。
夜の静寂に二人だけ。
(完)
玲生は風邪で寝込んで従兄のところに泊まっていると徳衛は言った。
外出先で具合が悪くなったところに従兄が通りかかったのだと。
瑞希はそれを信じてはいなかったけれど、内心はほっとしていた。
玲生の顔を見るのは嫌だった。
「瑞希くん、急いで食べないと遅刻するぞ。」
台所から徳衛が瑞希を呼ぶ。
玲生のいない今、朝食は徳衛が作る。
瑞希が作ると言っても、頑として譲らない。
軍隊にいたときは飯ごうで飯を炊いていたのだから任せておけと豪語する。
ご飯に味噌汁、納豆に生玉子。
これが毎朝の献立だった。
二人だけの食事はひっそりとしたものだった。
徳衛の態度は以前と少しも変わるところはなかったのだけれども。
朝食を終えて洗い物をしているとき、電話が鳴った。
「誰だ、こんな朝っぱらから。儂は手に洗剤がついとる。瑞希くん、電話に出てくれるかね?」
「はい。」
瑞希は電話に出ようとして躊躇する。
(もし、玲生だったらどうしよう。)
覚悟を決めて受話器を取る。
「はい、もしもし弓家です。」
電話の相手の声に瑞希は硬直する。
「おはよう。瑞希だね?」
その声は思いもかけない人物、瑞希の義父・加賀雅美のものだった。
「瑞希くん、電話は誰からだね?」
台所に戻ってきた瑞希に徳衛がたずねる。
瑞希の顔色は心なしか青かった。
「あの…」
喉がつかえてわずかに声がかすれる。
「電話は…俺の父からです。両親と妹が日本に帰ってくると。だから、また家族で暮らせると。」
瑞希は微笑んでそう言った。
家族で暮らせるという朗報にしては、空虚な微笑みだった。
「急の事で申しわけないのですが、両親が今度の日曜日にこちらへご挨拶に参りますとのことです。俺にはそれまでに荷物をまとめておくようにと。」
瑞希は一つ大きく呼吸してから言った。
「思っていたより両親の帰国が早かったです。一年ちょっとでしたがお世話になりました。」
瑞希は感謝をこめて徳衛を見つめた後、深々と頭を下げた。
徳衛は胸が詰まる思いになった。
「家族と暮らすのが何よりかもしれんが、この家は学校に近い。卒業するまで、このまま下宿してもらって構わないんだよ。」
「いえ、俺は家族と一緒に暮らします。それにその方が玲生も…。」
瑞希は思わず玲生の名を口にすると、わずかに眉をしかめた。
「それでは学校に行って来ます。」
徳衛は痛ましい気持ちで瑞希の後ろ姿を見送った。
瑞希を徳衛に託した吉岡範士の言葉を思い出しながら。
その電話がかかってきたのは瑞希が弓家の家にやってくる少し前だった。
相手は徳衛の旧知・吉岡範士だった。
「少年を一人預かってくれんかね。」
吉岡範士は突然電話をかけてきたかと思うと、徳衛にそう言った。
「それは構いませんが、私のところには女手がありませんが。」
徳衛は少々面食らいながらそうこたえた。
吉岡範士は徳衛が大学生の頃、既に錬士の称号を持つ大先輩だった。
弓道連盟に所属している関係で大変お世話にもなった。
しかし、徳衛が弓を手にしなくなってからは一度も会っていなかった。
「それは私も承知しているが、ぜひ頼みたい。名前を加賀瑞希という。小学生の時から私がみているが、とても筋の良い子なのだ。」
「何故それほど見込んでいる愛弟子を手放すのですか。それに私はもう弓道を教えていませんよ。」
「それでもだよ。私は今度、入院することになった。だから、私はもう彼をみてやることはできない。弓道も、彼の将来も。」
「何をおっしゃるんです。退院されたら、また…」
吉原範士は徳衛の言葉を途中で遮った。
「それはありえない。彼には言ってないが、私が患っているのは癌だ。」
徳衛は咄嗟に返す言葉を失った。
「これが君に是が非でもと頼む理由なのだ。そして、君には言っておかなければいけないことがある。心して聞いてほしい。彼の家庭は複雑でね。私がこれを知ってしまったのは偶然に過ぎないのだが、彼は義理の父親から性的な虐待を受けている。私は彼を助けてやりたい。しかし、私には残された時間があまり無いのだ。」
「吉岡範士。しかし、そういった問題は児童相談所か児童福祉司に保護を依頼した方がいいのでは。」
「私もはじめはそう思って、事実を確認しようとした。母親にも知らせるべきだとね。しかし、彼の態度で考えをあらためたのだ。彼は私にこう言ったよ。母親にこの事を知らせるのは何人だろうと許さないと。自分は母と妹の幸せを守っているのだと。彼は決して現実から逃げようとはしていない。理不尽な仕打ちに耐えながら闘っているのだ。確かに義理の父親の不埒な行為は許し難いが、果たして彼を父親から引き離して保護するだけで、本当に解決するのだろうか。家庭を壊し、母親の幸せを奪ったという負い目と忌まわしい記憶とともに一生心の傷を抱えて生きていかなければならない。それよりは自分自身の力で現在の状況を解決できる強い心を育ててやろうと私は思ったのだ。」
「吉岡範士、それは少年に解決できるような問題でしょうか。それに…私にも荷が勝ちすぎます。」
「いや、彼は強い。必ず自分で克服できると私は信じている。そして、彼を頼めるのは君しかおらんのだ。幸いなことに義理の父親は仕事で海外に行くことになった。この機会に、今は現実に耐えるのに精一杯で頑なになっている瑞希の心を育ててやってほしい。」
「わかりました。どれほどお役に立てるかわかりませんが、責任を持ってお預かりいたします。」
一方、影之のところに世話になっている玲生は瑞希と顔を合わせる勇気のでないまま一週間が過ぎようとしていた。
風邪で寝込んでいるという言い訳もそろそろ限界になろうとしている。
けれど玲生は未だにこたえを見つけられないでいた。
一日の大半を考え込んで過ごし、影之が世話をしなければ食事もとらず、眠ろうともしなかった。
意識を手放し眠りにおちれば、最悪の記憶が悪夢となって訪れた。
玲生は悲痛な叫びとともに飛び起きた。
「また夢にうなされたのか?」
仕事から戻ったばかりの影之が玄関から真っ直ぐに駆けつける。
ふるえている玲生の頭を自分の胸にそっと抱く。
玲生が落ち着くまでそうしてくれるのが常だった。
影之もまた、玲生を助けてやることができない自分を不甲斐なく思っていた。
何とか玲生の気を紛らわせようとするが、玲生は自分の殻に閉じこもったまま耳を貸そうとしなかった。
それでも影之は辛抱強く話しかける。
どうということのないいろいろな話を。
「玲生、おまえ馬鹿なところは昔とちっとも変わらないなぁ。」
まるで父親が枕元で子どもに話しかけるように。
「覚えているか?俺が子どもの頃、不注意で手に火傷したことがあっただろう?小さなおまえが心配してくれたのに、俺は自分の失敗が悔しくて八つ当たりしたんだろうな。おまえなんかにわかるかって相手にしなかったんだ。そうしたら、おまえはどうしたと思う?火鉢で沸騰して、蒸気を凄い勢いで出している鉄瓶の口に手をかざしたんだ。止める間もなかった。当然のごとく、おまえは火傷して大泣きするし、俺は親父に怒られるしで酷いめにあったんだぞ。」
何が心の琴線に触れたのか、玲生が影之の方を見る。
「そんなことあったかな?」
「あったんだよ。俺は馬鹿な奴だと思ったね。図体はでかくなっても馬鹿なところはちっとも変わりゃしない。本当におまえは馬鹿だ。どうしてこんなにまでおまえが苦しむ必要があるんだ?いくら相手が男といっても、キスの一つや二つ。俺はむしろおまえの方が酷いめにあってると思うぞ。」
影之は瑞希の過去のことは知らない。
玲生は自分のことは語っても、瑞希の過去については一言も口にしなかった。
それは玲生の口から他人に告げてよいものではなかったから。
「瑞希は俺を友人として信頼してくれていた。それを裏切ったんだ。俺は信頼している相手に裏切られたわけじゃない。相手が望まない好意を押しつけるのは暴力だよ。どうして、瑞希を傷つける前に気づかなかったんだろう。」
そして再び後悔に顔をゆがめる。
影之は悲しげに、胸に抱いた玲生の頭に顔を埋める。
「俺は人の気持ちを思いやるおまえが好きだ。やり方は突拍子もなく馬鹿だけど。馬鹿な従弟のためなら何だってしてやりたいのに、今度もまた、何もしてやれないんだな。俺が志乃だったらよかったのに。」
「志乃?」
玲生は懐かしい名前の響きに顔を上げる。
影之の双子の姉、優しい美人の玲生の従姉。
「おまえが事故でお袋さんたちを亡くして自分を責めていた頃、おまえ、志乃のところに泊まっただろ?俺、後から聞いて知ってるんだぞ。」
玲生は何も言えずに顔を赤らめる。
玲生が恋愛ではなく、志乃に慰めを求めたのは事実だった。
「非難してるんじゃないんだぞ。俺は志乃が羨ましかった。どんな形であれ、おまえを癒すことができるあいつが。俺だって、できることなら何でもしてやりたかった。おまえが肌の暖かさを求めるなら、抱くことだって厭わなかったぞ。」
影之の顔は真剣そのものだった。
玲生は唖然として影之の巨躯を見つめる。
「おい、変な意味でとるなよ。俺のは馬鹿な子ほど可愛い肉親の愛情だからな。つまりはそういうことだ。可愛い従弟のためなら何でもしてやる。俺に何がしてほしいか言ってみろ。」
影之は照れくさそうにぽりぽりと頭をかく。
玲生は眩しいものを見るように影之の顔を見つめた。
(俺は何を焦っていたんだろう?おきてしまったことが変えられないこと、心の傷が簡単に癒せるものじゃないことを知っていたはずなのに。そして…)
玲生は影之の分厚い胸板を拳でぽんと叩いた。
「ありがとう、もう充分にしてもらってるよ。」
玲生は感謝をこめて影之を見つめた。
「俺は瑞希に自分の気持ちをちゃんと伝えたい。今度こそ押しつけるのではなく。」
そう言うと、立ち上がって背筋を伸ばした。
若い柔軟な心。
このしたたかに気高い心を汚すことなど誰にもできはしないのかもしれない。
影之は惚れ惚れと自分の従弟を眺めた。
「玲生、おまえ強くなったな。俺はおまえを助けてやりたいとは思ったが、救いを与えてやることなんかできないと思っていた。それなのにおまえはそうやってあっさりと一人で立ち直ってみせるんだな。」
「俺は強くなんかないよ。だから瑞希を傷つけてしまった。でも、俺は強くなりたい。もう、二度と後悔しないように。もう、二度と誰も傷つけないように。俺、家に帰るよ。」
「そうか、帰るか。それじゃあ、まずは腹ごしらえといこうじゃないか。」
影之はその外見にふさわしい豪快な料理を玲生に披露した。
灯りがともる自宅の門前で玲生はしばらく躊躇した。
心配してついてきた影之に背中を押され、門をくぐる。
玄関先に積み上げられた出前の器が、料理する者のいない食生活を物語っていた。
意を決して声をかける。
「ただいま、戻りました。」
「こんばんわ、お邪魔します。」
玲生の硬い声音につづいて、影之の明るい大きな声が響きわたる。
家の中はひっそりと静かだった。
徳衛は居間で一人茶を飲んでいた。
「ただいま、じいさん。」
玲生はきまり悪げに祖父に声をかける。
徳衛はじろりと目線だけで玲生を見た。
「瑞希は…二階?」
ためらいがちに玲生がたずねる。
「瑞希くんはもう、ここにはおらん。」
「え?」
「ご両親が帰国されて、自宅へ戻った。」
「両親て、父親も?そんなの絶対だめだ。どうして引き止めなかったんだよ。」
玲生は愕然として徳衛を問いつめる。
「もちろん引き止めた。親の方も説得しようとした。それでも瑞希くんが帰ると言ったんだ。何処の馬鹿者のせいで引き止められなかったと思っている!」
年齢を感じさせない徳衛の大喝が玲生に浴びせられた。
「あ…俺が…。でも、帰らせちゃいけないんだ。絶対に!」
徳衛は玲生をじっと見つめる。
そして、廊下に立ちつくしたままの影之にむかって静かに言った。
「影之、おまえは席を外してくれんか。」
「いや、俺も聞くべきだと思うぞ。もう、こいつの方にかかわっちまったんだから。」
影之は玲生の隣にどっかりと座るとその頭を小突いた。
「だめだ。影之は関係ない。これは瑞希自身の、俺と瑞希の問題なんだから。」
玲生は何がなんでも影之を帰らせようとするが、影之は岩のように動こうとしない。
徳衛も思案顔になる。
「問題が重すぎるのだ。一人、二人が頑張ったところでどうにもならん。いいだろう、影之の力を借りることがあるかもしれん。少なくとも、この馬鹿者に家の敷居をまたがせることができたのだから。」
そう言って、徳衛は吉岡範士から聞かされた瑞希の話を二人に話して聞かせた。
玲生はうつむいて正座したまま、爪が食い込むほど膝頭をつかんでいる。
影之も普段の飄々とした顔つきが消えて、険しいものになっている。
「肝心な問題は解決してはいなかったが、瑞希くんは良い方向に向かっていたのだ。少なくとも本来の自分を取り戻しつつあった。それをこのおたんこなすが。」
徳衛の言葉に玲生は一言も言い返せなかった。
代わりに影之が玲生を弁護してやる。
「でも、じいさん。玲生はその子を強姦したわけじゃないし、さんざん後悔して苦しんだんだぜ。それに、じいさんが最初からその事を玲生に言っておけば良かったんだ。そうすれば、玲生だって絶対突っ走ったりしなかったぜ。」
「こんな重大な事をこの未熟者に話せるものか。かえって意識して変な考えをおこしたら困るだろうが。いや、今にして思えば、話しておいた方が良かったのかもしれんが。儂もまさか自分の孫が妙な気をおこすとは思わなかったのでな。」
「妙って何だよ。俺は真剣に瑞希が好きなんだぞ。」
「だから、それがいかんのだ。自然に反するだろうが。」
玲生はそれに対して猛然と言い返す。
「人を好きになることの何処がいけないんだよ。男だとか、女だとか、そんなの関係ない。好きなものは好きなんだよ。俺が犯した過ちは自分の気持ちを押しつけようとして瑞希の友情を裏切ったことだけだ。」
「おまえはほんとに真っ直ぐな奴だなあ。これだから俺はおまえが可愛くて仕方がないんだ。」
影之はそう言いながら、玲生の首を抱え込むと拳で頭をぐりぐりと押した。
玲生は痛みのあまり、目の端に涙を浮かべている。
「おまえがそうやって甘やかすから、うちの孫がぼけなすになるんだ。」
徳衛はそう言って溜息をついた。
「おはよう、瑞希。」
月曜日、早めに登校した玲生は教室の中に瑞希の姿を見つけるとすぐに声をかけた。
「おはよう。」
意外なことに瑞希は返事をかえしたが、その言葉は機械の音声のように冷たかった。
まるでそこに誰も存在していないかのように、鞄から教科書を取り出している。
「瑞希、話したいことがあるんだ。少しでいいからつき合ってもらえないかな。」
「俺の方に話すことは何もない。予習をしたいから邪魔しないでくれないか。」
玲生の方を見向きもしない。
玲生は氷の塊を飲み込んだような気持ちのまま、自分の席に着こうとした。
その玲生の肩にすれ違いざま杉森が合図を送ってよこす。
玲生が顔を上げると、無言で入口の方を指し示す。
そこには小沢が立っていた。
促されるままに玲生は二人の後について屋上へと向かった。
「いったい何があったんだよ。玲生が学校を休み始めた日からあいつ、変ったぞ。」
屋上へ出るなり、杉森が玲生を問いつめる。
「なんか以前の瑞希に戻ったっていうか、前よりグレード・アップした感じ。前と違って話しかければ返事はするし、おかしい場面で笑ったりもするんだ。だけど、全然魂が入ってねえの。まるで操り人形相手に話しかけてるみたいで虚しいんだよ。」
じゃれあう相手を失った小沢は手すりにもたれて寂しそうに言った。
「部活でもあの瑞希が悲鳴みたいな弦音だしてる。玲生が休んでる間に予選があったんだけど、一回戦敗退だったよ。瑞希、息合は合わせてるんだけど、当たりがぼろぼろなんだ。玲生はいないし、瑞希はそんなだし、『真善美』なんかがっくりきちゃって、怒る気力もなくしてたよ。」
玲生は何も言えなかった。
ただ、うつむいて聞いていることしかできなかった。
しかし、それでは納得できないほど、杉森も小沢も瑞希が好きになっていた。
「玲生、瑞希と喧嘩でもしたのか?」
どちらかというと玲生に味方したい杉森が躊躇いがちにたずねる。
「そんな単純なものじゃない。」
玲生は腕組みをしたまま、二人に背を向ける。
「俺が、瑞希の友情を裏切った。」
「友情を裏切ったって、まさか瑞希を押し倒して強姦したとか?」
「誰が強姦なんかするか!ただ…」
杉森と小沢が信じられないといったふうに絶句する。
振り向いた玲生は首筋まで真っ赤だった。
「自分の気持ちを…うち明けただけだ…」
始業のベルが鳴っても誰も動かなかった。
気まずい思いで黙り込む。
泣きそうな声でようやく口を開いたのは小沢だった。
「それは瑞希、ショックだよ。だって、瑞希、男に告白されんの大嫌いなんだよ。そんなこと玲生だって知ってたはずじゃないか。俺達と仲良くなった後だって、瑞希は玲生のこと一番信頼してたよ。俺が妬ましく感じるくらい、玲生のこと好きだったよ。それなのにどうして?」
「ごめん、俺も後悔してる。でも、自分の気持ちに嘘はつけない。」
「そんなの勝手だよ。ずるいよ。俺達の瑞希、返せよ。」
感情的になって玲生につかみかかる小沢を杉森が引き離す。
「小沢やめろよ。玲生だって辛いんだよ。だけど、これからどうするんだ、玲生?」
杉森の核心に迫る問いかけに玲生は真正面からこたえた。
「瑞希の信頼を取り戻す。いや、俺は嫌われたままでもいい。本来の瑞希に戻ってくれるなら。」
「できるか。」
「やり遂げなければと思っている。」
玲生は遠くを見つめながら自分自身に言い聞かせる。
問題はこの二人が知っている以上に複雑なのだから。
玲生はその日の夕方、祖父に教えてもらった住所を頼りに瑞希の家を訪れていた。
学校ではどんなに機会を窺っていても、瑞希と話をすることができなかったからだ。
瑞希の家族が住むマンションは学校から電車で一時間くらい、閑静な高級住宅街の一角にあった。
玲生は入口の前にたたずみ、しばし思案する。
ここで部活を終えて帰ってくる瑞希を待っていてもいいが、瑞希に拒絶されればそれまでだ。
第一、近所の人目がある。
路上で言い合いをして妙な噂でもたてられたら、瑞希の家族が嫌な思いをする。
意を決して建物の中へ足を踏み入れる。
インターホンには瑞希の母親と思われる女性が出た。
玲生が名前を名乗り、瑞希の忘れ物を届けに来た旨を伝えると、快くセキュリティ・ロックを開けてくれた。
瑞希の家は最上階にあった。
エレベーターの中で、家に上がり込んで瑞希を待つ言い訳を考える。
忘れ物を持ってきたのは事実だ。
瑞希は弓道場の矢立に巻藁矢を忘れていった。
しかし、そんなものは玄関先で渡してしまえば済むことだ。
だいたい、わざわざ忘れ物を家に届けに来たこと自体、不自然なのだ。
学校で渡せば済むことなのだから。
もっともらしい言い訳を考えつけずにいるうちにエレベーターは最上階についてしまった。
あたって砕けろとフロアーに足を踏み出す。
玄関に迎え出てくれた瑞希の母は綺麗な人だった。
髪と目の色合いが違うだけで瑞希と同じ面差しをしている。
これだけよく似ているのに印象だけが全く違った。
はかなげで思わず手を差しのべたくなるような女性だった。
「だあれ?」
その母親に隠れるようにして玲生を窺っているのは瑞希の妹らしい。
愛らしい盛りでやはり母親によく似ている。
「あの、これを瑞希くんに。」
家から持ってきた矢を瑞希の母に手渡す。
「まあ、わざわざご足労をかけてすみません。」
あっけなく用事は済んでしまい、何か言わなくてはと玲生が焦っていると、瑞希の母がにこやかにたずねた。
「もし、お急ぎでなければ、おあがりになってお茶でもいかがかしら?」
「は?」
「瑞希もそろそろ帰ってくる頃ですし、お友達が家をたずねてくださった事って一度もないんです。おばさんの相手はお嫌かもしれないけれど、学校での瑞希の様子とか教えていただけないかしら?」
「はい、僕でよろしければ、喜んで。」
母親の申し出に玲生は救われた。
これで何とか瑞希の帰りを待つことができる。
「まだ、こちらに帰ってきたばかりで、散らかっていてごめんなさいね。」
瑞希の母は玲生を居間に案内しながら謝った。
確かに玲生が通された居間は家具は揃っているものの、何の飾りもなく殺風景だった。
「学校での瑞希は友達とかいるのかしら?」
瑞希の母は玲生に紅茶をすすめながらたずねた。
「もちろん、いますよ。僕を含めて皆に好かれています。人気がありすぎて、瑞希と仲の良い奴は妬まれるくらいです。」
「本当に?良かった。」
玲生の言葉に花がほころぶように微笑む。
「以前から、瑞希には友達が遊びに来ることもないし、電話がかかってくることもなかったから、髪や目の色のことでいじめられたりしていないか心配していたの。」
目上の人なのに、少女のような人だと玲生は思った。
この人には心配をかけたくない、守ってあげたいと自然に思う。
瑞希が母親に何も言わないわけだった。
「以前はどうか知りませんが、高校ではそんなことはいじめの理由にはなりません。髪を染めている者もいるくらいですし、むしろ、憧れの対象になると思いますよ。瑞希はクラスでも弓道部でも人気者です。女の子にももてますよ。他校の女学生がラブ・レターを渡しに来ます。」
「まあ、瑞希が女の子から。もう、そんな年頃になったのね。そう、瑞希が楽しく過ごしているならいいの。瑞希が幸せなら。」
嬉しそうに語る母親の言葉が何故か玲生の心に引っかかる。
瑞希が幸せなら。
その言葉の後には何が続くのだろう。
玲生は頭の中で懸命にその答えを導き出そうとしていた。
「えりかとあそぶ?」
しかし、瑞希の妹がやってきて、もう少しで形になりそうだったものは霧散してしまった。
「恵梨花、いけませんよ。お兄さんは迷惑よ。」
「あ、かまいません。なに?あっちで遊ぶの?」
玲生は恵梨花の小さな手に連れられて、おままごとの広げられている部屋へ行った。
玲生は小さい子の相手は勝手がわからなかったが、恵梨花は茶碗を渡したり、持っていったり勝手に遊んでいる。
「はい、ごはんです。おにいさん、ママ、おにいちゃま、えりか。」
「パパは?」
「パパはえりかとあそばない。ママとおにいちゃまだけ。」
玲生は恵梨花の言葉に先程と同じようなものを感じた。
その訳を考えようとしていると、いきなり肩をつかまれた。
「ここで何をしている?」
腕をぐいと引っぱられて立ちあがる。
「瑞希が話を聞いてくれないから来た。」
「話などないと言っただろう。帰れ。」
部活を終えて帰ってきた瑞希だった。
瞳には怒りを宿している。
「話を聞いてくれるまで何度でも来るぞ。」
玲生も瑞希に負けない気迫で言い返した。
「貴様…」
「おにいちゃまもあそぶ?」
妹が怒鳴りかけた瑞希の手をひいた。
瑞希は素早く怒りをおさめる。
「いや、お兄ちゃんは遊ばない。恵梨花は一人で遊べるだろ?」
妹の頭を撫でてやって、瑞希は玲生を睨んだ。
「外で話を聞く。」
そう言って玄関へ向かった。
途中、台所にいる母に声をかける。
「母さん、ちょっと出かけてくる。」
「あら、でもせっかく来ていただいて、恵梨花も遊んでいただいたのよ。御夕飯を食べていっていただいたら。」
慌てて出てきた瑞希の母が玲生を引き止めようとしたが、玲生は丁重に辞退した。
玄関のドアが閉まった途端に瑞希の顔が険しいものに変わる。
「少し言ったところに公園がある。そこで話を聞く。」
瑞希は玲生を振り向きもせずに歩いていった。
夕方七時近くになっても暗くならないほど日が長くなった。
それでも梅雨の季節とあって、どんよりとした空模様のために辺りは薄暗い。
遊ぶ子どもの姿もない公園はしんみりと暗く静かだった。
公園の中程、人気のない場所に来ると瑞希は立ち止まった。
「さあ、話せよ。ただし、謝罪の言葉は聞き飽きてるぞ。」
瑞希の能面のような表情は、玲生に初めて話をしたときの瑞希を思い出させた。
むしろ礼儀を差し引いた分だけ、露骨に冴え冴えとしたものだった。
「俺は別に許しを乞いに来たわけじゃない。瑞希のことを話に来たんだ。今のままでいいわけないだろ?」
「何がだ?俺は両親が帰ってきたから家に戻った。学校以外ではおまえの顔を見なくても済むようになった。清々して幸せな気分だ。これ以上、俺にまとわりつかないでくれ!」
瑞希の口から毒を含んだ言葉が発せられた。
玲生は胸が塞がれるような思いだった。
「俺だって瑞希が本当に幸せだったら、しつこくつきまとったりしない。だけど、瑞希、変わったよ。杉本が言うんだ、瑞希が酷い弦音を響かせてるって。小沢が泣くんだ、一緒に腹の底から笑った瑞希を返せって。俺を嫌うのは当然でも、あの二人は違うだろ?あの二人だけじゃない。どうして周りの人間全てを拒絶するんだよ!」
玲生は自分の方を見ようともしない瑞希の胸ぐらをつかんだ。
あまりにも力が入りすぎてしまったために制服のボタンがちぎれ飛んで、瑞希の胸元まで露わになってしまった。
そこにあったのは生々しい鬱血した斑紋。
それは玲生の記憶にも存在するもの。
あの日ホテルの鏡に映った自分の身体にあったものと同じ証。
瑞希は玲生の手を思いっきりはらい、胸元を押さえた。
玲生の心は怒りと悲しみ、そして、わけのわからない感情でいっぱいになった。
「嫌だって言ってたじゃないか。今のままでいいわけないじゃないか。このまま一生、その男に抱かれ続けるのか!」
瑞希は思いっきり玲生を殴り飛ばした。
地面に倒れ込んだ玲生は鼻と口から血を流していた。
「おまえがそれを言うのか!おまえだってそれがしたかったんじゃないのか!」
瑞希は怒りに拳をふるわせている。
しかし、玲生も引き下がるつもりはなかった。
手の甲で血を拭いながら立ち上がる。
「俺は嫌がる相手を無理矢理抱いたりはしない。それに瑞希のお袋さんだって、息子の犠牲の上に成り立つ幸福なんて望むわけがない。」
再び容赦のない瑞希の拳に玲生は倒れる。
「何も知らないくせに、いい加減なことを言うな!」
瑞希は倒れた玲生を引きずりおこし、さらに殴る。
「おまえに何がわかるっていうんだよ!頼れる人は誰もいない。身を寄せる場所は何処にもない。優しい家族に囲まれて温々と育ったおまえに俺の気持ちがわかるもんか!」
玲生は瑞希の気が済むまで殴られ続けた。
まるで抵抗しようとしない玲生に、瑞希の怒りはますます募る。
「何で殴られっぱなしなんだよ?やり返せよ!」
玲生は静かな声で言った。
「俺の家に来いよ。お袋さんも妹も一緒に。俺は見返りに瑞希の身体を要求したりしない。俺は信じられなくても、じいさんは信じられるだろ?」
「…そんなこと…できるわけないだろ?母さんはどうなるんだよ!母さんは義父さんと夫婦なんだぞ。」
瑞希の声は涙声になっていた。
「瑞希にそんなことする奴がお袋さんのことを愛しているなんて思えない。お袋さんがこのことを知って壊れるような夫婦なら、本当に愛し合ってなんかいるわけない。来いよ、俺の家へ。お袋さんだって仕事を見つけることできるさ。」
玲生はゆっくりと瑞希に手を差しのべる。
瑞希は凍りついたように玲生の手を見つめていた。
それは初めて会った日に差し出されたものと同じ手だった。
一度は切れた二人の絆がつながるかと思えたそのとき、沈黙は破られた。
「そこにいるのは瑞希か。」
瑞希がびくりと身体をこわばらせる。
帰宅途中の瑞希の義父・加賀雅美だった。
玲生が初めて見る雅美は背が高く、仕立ての良いスーツを寸分の隙無く着こなした男だった。
瑞希の義父であることを知らなかったら、品の良い優しそうな紳士と思ったかもしれない。
しかし、玲生はその男の目つきが好きになれなかった。
優しそうに微笑んでいるのに、背筋が冷たくなるのを感じた。
「瑞希、こんなところで何をしているんだい?友達と喧嘩でもしたのかな?」
雅美はボタンのとれた瑞希の制服を指でなぞりながら、玲生のことをおもしろそうに見た。
「そんなんじゃない。もう、家に帰るところだったんだ。」
瑞希はそう言って立ち去ろうとする。
「待てよ、瑞希!話はまだ終わっちゃいない。それに俺はこいつにも言いたいことがあるんだ。」
玲生は雅美に向かって指を突きつける。
「おやおや、礼儀を知らない坊やだな。目上の人間をこいつ呼ばわりするとは感心しないね。それに、気に入らないね、その目つき。」
「あいにく俺は大人とは名ばかりの下司に対する礼儀は持ち合わせていない。」
玲生と雅美は睨み合ったまま対峙した。
「瑞希、彼に私たちの秘事を話したのかね?」
雅美は玲生から目をそらさずに瑞希にたずねた。
瑞希がぎくりと顔色を変える。
「玲生!おまえはもう、帰れ!」
「玲生?ああ、確か下宿した家の孫がそんな名前だったな。」
雅美は瑞希の手首を捕まえて引き寄せ、ぐいと首筋を捕まえた。
「お仕置きをしないといけないな。私の留守中にこんな野良犬を近づけて。」
瑞希はされるままになっている。
雅美の瑞希に対する酷い扱いように玲生は激怒する。
「瑞希に触るな!瑞希も!そんな奴の言いなりになんかなるなよ!」
雅美は玲生をわざと挑発するように瑞希を抱きしめる。
「これは私のものだ。おまえにはやらない。」
「瑞希は物じゃない!これ以上、瑞希を侮辱したら…」
許さないと言おうとした玲生を瑞希がさえぎる。
「玲生!もう…やめてくれ。これ以上、俺に恥をかかせるな。義父さんも。俺は義父さんのものだ。それで…いいでしょう。」
「そう、それでいい。瑞希は素直ないい子だ。」
雅美はわざとらしく瑞希の身体に手をまわすと、玲生の前から瑞希を連れ去った。
玲生は追うことも、それ以上、何か言うこともできずにその場に立ち尽くした。
また、瑞希を傷つけてしまった。
あんな屈辱的な仕打ちに甘んじているところは絶対に見られたくなかったはずだ。
誰よりも気丈で、誰よりも誇り高い瑞希。
それをあんなふうに扱うなんて。
玲生の瞳から止めどなく涙が流れ落ちた。
瑞希は自分の部屋に戻るとベッドの上で膝を抱えて座り込んだ。
眠れるわけがない。
眠気などとうに何処かへいってしまった。
真っ暗な部屋の中、カーテンの隙間から差し込む一条の月の光が瑞希の顔を照らし出す。
瑞希の瞳は光をとらえてはいなかった。
もっと遠く、深淵の闇を見つめていた。
心の奥底に閉じこめていたはずの記憶。
瑞希の存在全てを蹂躙していた過去。
瑞希の心は時の彼方の暗く濁った奔流に呑込まれ悲鳴をあげていた。
窓の外は嵐、ときおり稲妻が走る。
部屋の中は夜の闇が支配していた。
稲妻が瑞希の恐怖にかられた顔を壁の鏡に映し出す。
いくら助けを求めて叫んでも、こたえてくれる人は誰もいなかった。
母は瑞希の妹を出産するために病院に入院している。
家族が増えることを喜び、母を見舞ってきたのは今日の昼間だ。
今、目の前にいる義父と一緒に。
「やめて!お義父さん。」
瑞希は信じ難い現実から必死に逃れようとしていた。
しかし力強い腕はそれを許してはくれない。
義父は抗う瑞希をベッドに押さえつける。
「どうして嫌がるんだ?瑞希はお義父さんのこと好きだって言っただろう?」
その声は行われている暴力とは裏腹に甘く優しかった。
「言ったけど、こ…んなのは嫌…だ。」
瑞希の表情は嫌悪に歪んでいた。
義父は拒絶する瑞希を不思議そうに眺めやる。
「お義父さんは瑞希を一目見たときから好きになった。瑞希を私のものにしたかった。一緒に暮らすようになってから毎晩、瑞希の寝顔を見ながらこの日が来るのを待っていたよ。」
義父は恍惚とした笑みを浮かべながら瑞希を抱擁した。
瑞希はそこに見知らぬ男を見いだして恐怖に凍りついた。
魂が抜けたように抵抗をしなくなった瑞希を男は欲望のままに我がものとする。
瑞希の心は傷つき、裏切られ、虚空を漂っていた。
瑞希の母は葛木という厳格な旧家の末娘として生まれた。
その母が留学中に英国人の父と恋に落ちた。
けれど、家柄を誇る両親に二人の結婚が許されるはずもなく、母は全てを捨てて父と結婚した。
家に連れ戻されるのを逃れて英国で暮らすうち、瑞希を出産し、ささやかながらも幸せな家庭を築いていった。
しかし、幸福な日々は長くは続かなかった。
瑞希が物心ついた頃には父はこの世の人ではなくなっていた。
世間知らずの母が親の反対を押し切ってまでの結婚という大胆な決心ができたのも、父という庇護者がいればこそだった。
自分を守ってくれる最愛の夫を失った母には幼い瑞希を抱えて自分一人の力で生きていく才覚も強さもなかった。
実家を頼る以外の術はなく、瑞希を連れて両親に頭を下げた。
しかし、家の体面に傷をつけた母を旧家の古い屋敷が暖かく迎えてくれるはずもなかった。
ましてや外国人の血を引く瑞希は祖父母にとって厄介者以外の何物でもなかった。
日本における生活は瑞希と母にとっては辛いものとなった。
母は幼い瑞希をかばいながら、祖父母の冷たい仕打ちに耐えていた。
同じ屋根の下に暮らしていながら、瑞希に肉親の愛情をそそいでくれたのは母だけだった。
瑞希は成長するにつれ、かよわい母に守られるよりも守りたいと願うようになった。
その度に自分の無力さを思い知らされた小学六年生の頃、加賀雅美(まさよし)は母の再婚相手として瑞希の前に現れた。
立派な家柄の現役外交官。
祖父母にとっては願ってもない縁談の相手だった。
母の意思などお構いなしに話は進められた。
瑞希は自分こそが母を守らなければと心に決めていた。
しかし、その決心は空振りに終わる。
見合い相手の加賀は予想に反して好印象だった。
誠実で温厚そうなその男は見合いに同席した瑞希に優しく微笑んでみせた。
瑞希には母の再婚を反対する理由が見つけられないまま、日々は過ぎていった。
加賀は母に会うときは必ず瑞希を同行させた。
そうしたことが母と瑞希に信頼を抱かせるようにしたのかもしれない。
いつしか瑞希と母はその男が保護者となることを受け入れていた。
母は夫として、瑞希は父として。
母が再婚してから一年余りは幸せな日々が続いていた。
ゆったりとしたマンションで誰にも気兼ねすることなく生活する母。
瑞希は瑞希で顔すら記憶にない父の面影を義父に求め、それは望めば与えられた。
義父は瑞希をとても可愛がった。
仕事から帰ると瑞希の相手をし、休みにはいろいろな所に瑞希を連れて出かけた。
その仲睦まじい様子は実の親子以上に思われた。
母は喜び、瑞希はそれを父性愛と信じていた。
義父の溺愛の不自然さに気づきもしなかった。
瑞希はあまりにも父の愛に飢えていたので。
父という存在に愛されることを渇望していたので。
瑞希は加賀雅美を父として慕うようになっていた。
窓から射しこむ朝日に瑞希は目を覚ました。
酷い悪夢を見たような気がする。
汗をびっしょりかいて気持ちが悪い。
身じろぎした途端に身体に激痛が走った。
「目が覚めたのかい?」
驚いて飛び起きた拍子に再び苦痛に苛まれる。
夢ではなかった。
義父が瑞希の傍らに横たわっていた。
見慣れた優しい笑みを浮かべ、瑞希を見つめている知らない男。
「おはよう。昨日は素晴らしい夜だったね。」
心底嬉しくて仕方がないといった様子だ。
「どうして…。あんなこと…。」
瑞希は嫌悪に唇を震わせ、義父を睨みつけた。
義父はそんな瑞希を不思議そうに見つめる。
「どうしてって、瑞希が好きだからに決まっているじゃないか。」
瑞希は義父の返事に泣きたい気持ちで首を振る。
「好きだからあんなことをしたっていうの?僕は男なんだよ。それにあなたは母さんと結婚したんじゃないか。」
「そうだよ。瑞希を私のものにしたかったからお母さんと結婚したんだよ。」
「そんな…」
瑞希には義父の考えていることが理解できなかった。
恋愛というものすら知らない瑞希に歪んだ愛情をわかれという方が無理だった。
「僕は嫌だ。あんなことは絶対に嫌だ!」
瑞希の激しい拒絶に義父の顔が険しいものに変わる。
「お義父さんは聞き分けの無い子は嫌いだよ。」
折れるかと思うほど手首をねじ上げられ、押さえつけられる。
小柄で華奢な瑞希には振り解くこともできない。
「絶対に嫌だ!母さんに言いつけてやる。」
痛みに耐えながらやっとの思いで声を絞り出す。
目の縁に涙がにじんだ。
「ほう、お母さんに言ってどうするんだ?ここを出て、また葛木の家に戻るのか?」
義父の声が残酷に響いた。
瑞希と母を厄介払いした肉親の愛情薄い祖父母だ。
再び頼ることなどできるはずがない。
母にも瑞希にも行く当てなど何処にもなかった。
義父は質問の意味するところが瑞希の中に落ちつくのを待ってゆっくりと言った。
「じいさんたちを頼らずにお母さんは瑞希と生まれたばかりの赤ん坊を抱えて生活していけるのか?」
もちろん、母がこのことを知れば、すぐにでもこの家を出るだろう。
しかし、そんなことを母にさせるわけにはいかない。
瑞希一人の時ですら、祖父母を頼らなければならなかった母なのだ。
小学生の瑞希には他の選択は考えられなかった。
「わかったかな?」
満足そうな男の問いに瑞希は無言で頷くしかなかった。
それから三年近く、義父との呪わしい関係は続いた。
母と妹の生活を守るために義父との関係を壊すわけにはいかなかった。
望まれるままに瑞希は自分自身を義父に与えた。
母にはひたすら隠しながら。
瑞希の心には義父との忌まわしい行為に対する嫌悪と同時に、それに相反する感情も確かに存在していた。
義父は瑞希と共有する秘事以外は信じられないほど良き夫であり、父だった。
義父の父である部分を瑞希は憎みきれないでいた。
仮にそれが表面上の偽りであったとしても。
父親という言葉は瑞希にとって特別な感情を封じ込めた扉を開く鍵だったので。
瑞希の無意識の心には父親とは最も忌まわしいもの、そして、それ故に最も憧れてやまないものとして刻まれていた。
朝食も昼食も食べてくれる者のないままに冷えていった。
玲生は一人、誰もいない台所の椅子に腰掛けている。
祖父はまだ旅行から帰って来ない。
瑞希は昨夜から二階に上がったまま降りてこなかった。
玲生も食事がしたくて作ったわけではなかった。
家中がひっそりと重苦しい空気に包まれて、玲生は何かをしないではいられなかった。
瑞希に謝らなければと思いながらも、自分から瑞希の部屋へ向かう勇気がでなかった。
何と言って謝ればいいのか。
自分の感情を抑えきれなかったこと。
知らなかったとはいえ、瑞希の過去にふれてしまったこと。
許してもらえるとは思えない。
自分でさえも許せないのだから。
コトリ!
小さな物音に驚いて振り返ると瑞希が立っていた。
面変わりした様子が痛ましい。
おそらく一睡もしていないに違いない。
「すまない、瑞希。謝って済むことじゃないけど、二度とあんなことはしない。」
玲生は心の底から謝った。
「でも、瑞希を好きな気持ちは嘘じゃない。恥じるつもりもない。瑞希にあんなふうに無理強いしたことは謝るけれど。」
真摯な言葉も瑞希の心には届かない。
こわばった表情は能面のように動かない。
「どうすれば許してもらえる?どうやって償えばいい?瑞希の気が済むなら何でもする。」
「何でも?死ねと言えば、死ぬとでもいうのか?」
「瑞希が望むならそうするよ。」
玲生は淀みなく即座に答えた。
澄んだ眼差しで瑞希の瞳を見つめる。
先に目を逸らしたのは瑞希の方だった。
「ばかばかしい。そんなことしたって何が変わるというんだ?俺が友達を失ったということに変わりはないじゃないか。」
瑞希は横を向いたまま独り言のように呟いた。
「友達なんかいらない。信じなければ、裏切られることもない。」
まるで自分に言い聞かせているかのようだ。
「償いなんていらない。もう顔も見たくない。それだけだ。」
瑞希の残した言葉は冷たく容赦がなかった。
覚悟はしていても軽く受け流せるものではない。
薄暮に暗くなっていく部屋の中で、灯りもつけずに玲生は立ち尽くしていた。
どうすればいいのだろう、何処へ行けばいいのだろう?
瑞希から逃れるようにして家を出たものの、何処にも行くあてはなかった。
日曜日の夜とあって、それほど人通りは混雑してはいない。
特に店を選ぶでもなく、自虐的に酒を煽った。
背が高く、落ち着いた顔だちの玲生は私服の時に未成年に見られたことはない。
したたかに酔い、自分で自分を持て余していた。
答えを見つけるどころか正しい判断能力も失い、自分の足元すらも覚束ない。
そのとき、若い会社員風の男が玲生に近づいてきた。
傍から見るものには飲み過ぎた友人を介抱する様子に見えたかもしれない。
いつもの玲生ならば、親切そうに見える男の目に潜む妖しい光に気づいたはずだ。
あるいは気づいていながらも無視する程、自暴自棄になっていたのか。
玲生は促されるままに男に着いて行った。
連れて行かれたのは薄暗い照明のホテルの一室。
何をするための部屋か一目でわかるその部屋には退廃の淀んだ空気が充満していた。
咄嗟に身を翻した玲生の行く手を男が遮る。
「ここまで来て逃げるのはなしだぜ。」
男の顔が欲望に醜く歪んだ。
気がつくと玲生はホテルのベッドに横たわっていた。
男の姿は既にない。
一糸纏わぬ姿のまま、文字通りぼろ雑巾のように打ち捨てられていた。
片肘を立て、鉛のように重い身体を起こす。
「俺は…くっ…ははは…、…無様だな…」
自虐的な笑いが虚ろに部屋に響く。
止めどなく涙が流れ落ちた。
動く度に痛みが走る身体をようやく引きずってバス・ルームに入る。
どんなに身体を洗っても不快な感覚はまるで消えない。
自分が腐臭を放っているような気がした。
身支度をしてホテルを後にする。
いったい何時頃なのか。
やっと出た表通りはネオンの光が洪水のように押し寄せてくる。
あまりの眩しさに目眩がした。
街の喧騒に頭が割れそうに痛む。
胃液が逆流し、身体を二つに折曲げて嘔吐する。
身体が悲鳴をあげて玲生の意思を拒絶する。
立っていられずに道端に座り込んでしまった。
道行く人が嫌な顔をして玲生を避けていく。
瑞希を傷つけた自分が許せなかった。
瑞希の傷ついた心をどうすれば癒す事ができるのかわからなかった。
望まない性行為。
それは肉体の苦痛だけにとどまらず精神をも犯す。
簡単に忘れられるものなどではない。
自分もああいうことを瑞希に望んでいたのか?
自分もあの男のように欲望のたぎった瞳で瑞希を見ていたのか?
男から受けた暴行によって玲生は自覚以上に打ちのめされていた。
絶望と後悔を噛みしめながら、玲生は家に帰る事もできずに膝を抱えてうずくまっていた。
「おい、あんた大丈夫か?具合でも悪いのか?」
玲生はどのくらいその場所にそうしていただろう、通りがかりの青年に声をかけられた。
肩に触れられ、びくりと身を引く。
見上げた瞳は怯えて震えていた。
「…おまえ、玲生!こんな所で何してるんだ?」
「か…げゆき…何でこんな所にいるんだ?」
「それはこっちの台詞だろ。」
それは玲生がよく見知っている顔だった。
弓守(ゆもり)影之、仲の良い年上の従兄。
古い知り合いに会った安堵感に、玲生は自分の意識の手綱を手放した。
限界まで自分を追いつめていた玲生の意識は暗闇の中に沈んでいった。
瑞希が前を歩いていく。
後ろを振り返り、何か言いたそうにしている表情が切ない。
切なすぎて胸が締め付けられる。
何度も呼びかけているのに、瑞希は立ち止まってはくれない。
遠ざかる瑞希を捕まえようと伸ばした手を誰かにつかまれ、玲生は目を覚ました。
逞しい大きな手が玲生の手を握っている。
「目が覚めたか?凄い汗だな、今タオルを持ってきてやるから待ってな。」
玲生の顔を心配そうに覗き込んでいた大きな身体が退くと見たことのない部屋の風景が広がった。
玲生は寝間着に着替えて布団に寝かせられていた。
「ここは…何処だ?どうして影之が日本にいるんだ?」
まだ夢と現の間ではっきりしない頭でたずねる。
従兄の影之は弓道連盟の派遣指導員としてハワイに行っているはずだ。
「交代要員が予定より早く見つかってな、昨日こっちに帰ってきた。」
隣の部屋からでも聞こえる大きな声で影之は玲生の問いに答えた。
久しぶりに会った影之は陽に焼けて健康そうだ。
褐色の肌と色素の抜けた長髪からは南国の太陽の香りがした。
「仕事場でも家でも親父と顔をつき合わせるのは欝陶しいだろ?友達が留守の間、このマンションを借りているんだ。」
影之の家は代々弓具店を営んでいる。
父はこの世界では名の知れた腕の良い弓師であり、影之もゆくゆくは跡を継ぐ。
しかし、普通の人が影之の生業をその外見から想像するのは難しい。
彫りの深い整った顔は日焼けして益々日本人離れし、その顔立ちに不釣り合いな位逞しい体躯は格闘家のようだ。
その逞しい大きな手で玲生の額の汗を拭いてくれる。
予想に反して、その大きな手は羽毛のように優しかった。
影之が首筋から身体を拭こうとした瞬間、玲生は身体をこわばらせた。
昨夜の記憶が蘇るとともに吐き気を催す。
口元を抑えて必死で堪こらえる。
影之は玲生を抱きかかえて素早く洗面所に連れて行った。
「我慢しないで吐いちまいな。その方が楽になるから。」
嘔吐してももはや胃液しか出てこない。
苦しさに身体が痙攣する。
ようやく納まり、差し出されたタオルで口を拭う。
影之は幼子を抱くようにして玲生の背中をさすった。
「俺が日本にいない間に何があった?昨日は何であんな所にいたんだ?瑞希って誰だ?」
矢継ぎ早に質問する影之を玲生は押し退けた。
しかし、よろけて倒れそうになる。
慌てて影之が抱きとめる。
「この馬鹿、無理すんなよ!お前熱だしてるんだぞ!」
再び抱きかかえて玲生を布団に寝かせてやる。
もはや影之の顔は笑ってはいない。
「玲生、隠そうとしても無駄だぞ。俺はお前を寝間着に着替えさせたんだからな。それじゃ一目瞭然なんだよ。」
指を突きつけられ、玲生は寝間着の襟元をきつく抑えた。
身体中に残された赤い斑紋、背徳の証。
影之の手が玲生の前髪を優しくかきあげる。
それだけでも玲生はびくりと身体を硬くする。
「俺はお前を尋問しているわけじゃない。言いたくないなら言わなくてもいい。でも、今のお前はいろんなものが詰まっていてはちきれそうに見えるぞ。心のしこりも吐いちまった方が楽になるんじゃないのか?」
暖かい掌で頬を包まれると自然に涙がこぼれ落ちた。
祖父にも相談できなかった事がこの従兄には言えるような気がした。
そして従兄は黙って静かに玲生の話を聞いていた。
瑞希の事、昨夜の事、全て話し終えると玲生の肩から力が抜けた。
「少し眠るといい。じいさんには俺から適当に言っておくから。」
そう言って影之は部屋を出て行った。
誰かに話したからといって解決するわけではない。
けれど取り合えず今は玲生は眠りに落ちていった。
瑞希は自分の部屋に閉じこもったままだった。
玲生が出かけてくると声をかけてきたときも、返事はしなかった。
何をする気にもなれない。
ただ、悶々ときりのない思考の迷路を彷徨っていた。
何故、自分の身には同じようなことがふりかかるのか。
実の父が亡くなって母と日本にやってきたときも、瑞希は葛木の家で理不尽な仕打ちに耐えるしかなかった。
義父に歪んだ愛情を強要されたときも、頼るべき場所は何処にもなかった。
弓家の家に来て、初めて自分の居場所を見つけたと感じていた。
この生活がいつまでも続くことを望んでいた。
それなのに。
ここでもまた期待を裏切られた。
どうして自分は同性から恋愛の対象とされるのか。
自分からそういう態度をとっているつもりは毛頭ない。
それに、できるだけ人とのつき合いを避けていた。
人と距離をおくようにしていた。
その距離を玲生は一歩一歩近いものにしていった。
ついには並んで歩み立つまでに。
考え込む瑞希の手には長い黒髪の束が握られていた。
それは玲生が弓道部に入部するときに切ったものだ。
あの時、捨ててくれと渡されたその髪を瑞希は捨てずに持っていた。
何故か、捨てられずに、信頼の証とでもいうように。
(信頼させておいて、裏切った。)
瑞希はその髪を思いっきり壁に投げつけた。
夕刻、徳衛が旅行から帰ってくると、家の中は真っ暗だった。
しんと静まりかえって人の気配がない。
灯りをつけながら二階へ上がる。
「玲生、瑞希くん、二人ともいないのか。今、帰ったぞ。」
玲生の部屋は開け放たれたまま、誰もいない。
瑞希の部屋に鍵はかかっていなかった。
暗がりにうずくまる人影がある。
徳衛は灯りをつけて声をかける。
「こんな暗がりでどうしたんだね。玲生は何処に行った?」
瑞希がびくりと跳ね上がる。
徳衛の姿を認めてかすれた声でこたえる。
「玲生は、出かけました。行き先は聞いていません。」
それから一呼吸おいて、瑞希は続ける。
「あの、僕はここを出ます。母に連絡して、なるべく早く別のところを探します。」
突然の瑞希の申し出に徳衛は驚く。
「玲生と喧嘩でもしたのかね?」
徳衛が近づくと瑞希はびくりと後退する。
徳衛は溜息をついて瑞希をなだめる。
「そんな捨てられた猫のように警戒せんでもいい。どうせ玲生の奴が何かやらかしたんだろう。」
徳衛の確信のこもった言葉に瑞希はどきりとする。
「そんなんじゃありません。ただ、一人暮らしがしてみたくなっただけです。」
瑞希の声は先細りになり、最後の方は呟きのようになった。
徳衛は断固とした、しかし、優しい声で言った。
「だめだ。君は儂が吉岡範士から責任を持ってお預かりしたのだ。一人暮らしをさせるわけにはいかないよ。」
「でも…」
「瑞希くん、人が人と関わるとき、そこには必ず何らかの摩擦がおきる。いい意味でも、悪い意味でも。時には全く思いがすれ違うこともあるだろう。理解し合えないこともあるだろう。しかし、人は人の中で生きていかなければならない。避けて通ることはできない。何があったのか知らないが、逃げることだけはしないでほしい。けれど、これは瑞希くんの気持ちを曲げて我慢しろといっているのではないよ。まず君がどうしたいのか、もう一度よく考えてごらん。そのうえで歩み寄れるものなのか、別の道をゆくのか答えを出しても遅くはないだろう。」
徳衛はいつもするように瑞希の頭をくしゃくしゃと撫でた。
瑞希は逃げずにされるままになっていた。
その筋張った老人の手は瑞希にとって、もう馴染み深いものになっていたので。
「儂は家族というものは心のよりどころだと思っている。血のつながりとか一緒に暮らしているというだけのものではないと。だから、たとえ心の行き違いがあっても、いつかはわかりあえるものだと信じているよ。」
徳衛の言葉に涙がこぼれ落ちる。
瑞希はその涙を止めることも隠すこともできなかった。
玲生は瑞希に出会って二度目の桜の季節を迎えた。
繚乱の桜の花に、初めて会った日の瑞希の印象を思いだす。
あのとき抱いた鮮烈な感動は今も薄れることがない。
瑞希と出会えたことを、この一年、瑞希の横に友人としていられたことを大切に思う。
玲生は二年になって瑞希と同じクラスになり、より多くの時間を共有するようになった。
また、弓道部における二人は冬の昇段審査で三段に昇段してその存在を確かなものにした。
そして、瑞希は級友たちや弓道部の中で孤立することがなくなった。
以前の何人も側に寄せつけないような冷たい態度が和らぎ、人と接することを拒絶しなくなった。
友人を作り、語り、笑う、そんなありきたりの高校生活を玲生と瑞希は満喫していた。
新緑の木立から射し込む夕日を浴びながら、雑談を交わす影がある。
部活が終わり、帰路についている玲生たちだった。
本来は弓道場から校舎の横を通り、校門へ続く舗装された道がある。
しかし、そんな遠回りをする部員は誰一人としていない。
雨の後で泥濘にでもなっていない限り、雑木林の中の近道を行く。
まだあまり慣れていない一年生の後かたづけにつきあっていた玲生たちは、部室を出るのが最後になってしまった。
「ああもう、疲れた。『真善美』のあの異様なまでのはりきりようはいったい何なんだ?」
弓道部に馴染んだ今でも三年の雨宮兄弟が苦手な瑞希はうんざりした調子で文句を言う。
「三年の今年こそは大会出場を果たしたいと思っているんじゃないのか?」
と生真面目にこたえたのは杉森。
「いや、『真善美』のテンションが高いのはいつものことだよ。」
明るく軽い調子で言うのは小沢。
いつの間にか一緒にいることが多くなった四人だった。
杉森は一年の時から玲生と同じクラスで仲が良く、小沢は瑞希が弓道部で孤立していたときですら当たり障りなく接していた只一人の弓道部員だった。
それが二年になって四人とも同じクラスになると、自然に親しさが増した。
「勘弁してほしいよ、まったく!そんなに精進したけりゃ自分たちだけでやればいいんだ。そりゃあ、俺だってもっとうまくなりたいよ。だけど馬車馬みたいにしゃかりきに稽古させられるのは俺の性にあってないんだ。玲生や瑞希は実力あるからいいけどさあ。 」
恨めしげに小沢に言われて、瑞希は心外だといわんばかりの顔をする。
「何がいいものか。おかげで『真善美』に目の敵にされているんだぞ!」
「いや、違う。あれは一種の愛だね、愛!自分たちの求めてやまないものが形となって目の前にある。だから、それを求めて、求めて、狂おしいほどに。」
小沢は芝居がかった仕草で瑞希の方に手をさしのべる。
「小沢、気色の悪いことを言うな。」
「うわあ、ごめん、冗談だってば…」
瑞希は自分の弓と矢筒を玲生に預けるやいなや小沢の首を締め上げる。
もちろん本気ではないのだが、顔は笑っていない。
瑞希はこういった類の冗談が嫌いだった。
それを知りながらも瑞希の反応が面白いのか、小沢はしばしばからかっている。
しかし、根っからのお調子者で、悪気があるわけではないことは瑞希も既に知っている。
怒ってはみるものの、いつしか笑いながらのじゃれあいになってしまう。
「二人ともおいて行くぞ。」
「こいつをしめてから追いつくから、先に行ってろ。」
「うわあ、助けてくれ。」
瑞希も小沢も言っている言葉と反対に顔は笑っている。
玲生と杉森は呆れながら先に行く。
杉森は振り返り、飽きずにじゃれあっている二人を遠目に見ながら玲生にうち明ける。
「最初、瑞希が入部してきたときはあんな表情は想像もできなかったよ。お高くとまっていて、なんて嫌な奴だろうと思った。」
杉森がそう言うのも無理はなく、実際に瑞希はそういう態度をとっていた。
瑞希が他人と関わるのを避けていたこともその理由ではあるが、吉岡範士のもとで一人稽古をしていた瑞希には学校弓道の当たりを重視した風潮が余りにも異質に感じられたのだ。
玲生にしても高校で初めて学校弓道というものを経験したので瑞希の気持ちが手に取るようにわかるのだが、そうとも言えず苦笑しながら杉森にこたえた。
「人見知りが激しいんだよ、瑞希は。でも、話してみればいい奴だろう?」
「うん、今ではそう思うけど、それだけじゃなかったんだよ。俺は瑞希が妬ましかったのかもしれない。」
言いにくそうに少し間をおいて杉森は続ける。
「中学生で弓道やってて『弓家玲生』の名前を知らない奴はいなかった。みんな憧れて目標にしてたし、いつか一緒に的前に立ちたいと思ってた。その玲生がこの高校に入学してきたと思ったら弓道部には入部しないし、顔だけ綺麗な澄ました奴と仲良くしてるもんだから…あ、ごめん。」
うっかり口をすべらしてしまい、きまり悪そうに謝罪する。
「玲生が交通事故の後、弓道から離れていたのは知っていたけど、瑞希には嫌がらせの一つもしたくなるってもんだろ?」
杉森はますます居心地悪そうに白状した。
「まさか、瑞希いじめは俺のせいだったっていうのか?」
声を荒げた玲生に杉森は慌てて言う。
「瑞希にはもう謝ったぞ。でも、そのせいで玲生がまた弓道を始めたとしたら俺達のいじめも許されるかな…と。」
「許せるか!」
「うわあ、ごめん。もうこの話はなしにしようぜ。ほら、あいつらがこっちに来る。」
瑞希と小沢がもどってきて仕方なくこの話は打ち切りになった。
瑞希に弓と矢筒を返しながらも玲生の心は釈然としなかった。
知らなかったとはいえ、瑞希の孤立に自分が一因となっていたとは。
そんな玲生をよそに他の三人は既に違う話題に笑い興じていた。
五月の清々しい風が頬に心地よく、夕方といっても日が延びてまだだいぶ明るい。
四人が向かっている校門の外にひとりの少女が立っていた。
男子校の前だというのに恥ずかしげな様子もなく、ぴんと背筋を伸ばして校門の前に立っている。
黒い瞳と小さな赤い唇は日本人形のようで、長く切りそろえた黒髪が風にそよいでいる。
頬にかかる髪を押さえる手の白さが印象的だ。
最初に気がついたのはめざとい小沢だった。
「あの制服、『桜女の乙女』じゃん。男子校の前で何してるんだろ?」
そわそわと落ち着きのない小声でささやく。
桜女とは近隣にある私立白桜女学園のことで、幼稚園から大学までの一貫した厳しい女子教育で有名なところだ。
そして、その生徒たちは『桜女の乙女』と呼ばれ、男子校生徒の羨望の的となっていた。
その乙女が男子校の門の前に立っているのだ。
小沢でなくとも落ち着きがなくなるのは当然のことだった。
校門を出る四人の方へ少女はやってくる。
彼女が立ち止まったのは瑞希の前だった。
「あの、先日はありがとうございました。私、朝倉由紀奈といいます。あのときは助けていただいたのにお礼もろくに言えなくてすみませんでした。」
少女は薄桃色のリボンでラッピングされた可愛らしい包みを瑞希に差し出した。
「これ、つまらない物ですけど、お礼です。」
まっすぐに目を見つめる仕草が潔く、否とは言わせぬ勢いで包みを瑞希の手に押しつける。
「え?こんなこといいよ。俺はそんなつもりで助けたわけじゃない。」
突然差し出されて受け取ってしまったものの、瑞希は包みを少女に返そうとする。
「本当に気持ちだけの大したものじゃないので、受け取ってください。そうしないと私の気持ちが済みません。本当にありがとうございました。…加賀…瑞希さん。」
少女は白い頬を薄紅色に染めて瑞希の名前を口にした。
「いや、本当にこんなことされたら困る。でも、俺は名前なんかいってないのに、どうして?」
「友達のお兄さんがこの学校にいるんです。それに…加賀さんと弓家さんのお二人は私たちの間では有名ですもの。今日は突然にたずねてきたりしてすみませんでした。」
少女はぺこりとお辞儀をすると足早に去っていった。
「え?これ…あの…」
結局返すことができなかった包みを手に、瑞希は途方に暮れる。
「ああ、やっぱり桜女の注目は玲生と瑞希の美形コンビかぁ。瑞希ぃ、ずるいぞお。あんな可愛い子と何処で知り合ったんだよお?」
小沢が羨ましそうに瑞希を問いつめる。
「よせよ、そんなんじゃないよ。この間、柄の悪い連中にからまれていたのを偶然に通りかかって助けただけで…」
「そういうのから恋は始まるんだよ。う~ん、甘い匂い。察するに手作りのお菓子ってところかな?」
瑞希の手からするりと包みを取り上げると、小沢はリボンをほどき、中を覗き込む。
「あ、手紙が入ってる!」
「やめろってば!本当にそんなんじゃないんだから。食い物が欲しいならおまえにやるよ。」
瑞希は手紙を取り上げようとするが、小沢は面白がっていて返そうとはしない。
勝手に手紙を開封しようとするのを玲生が小沢から取り上げる。
「小沢、言い加減にしろ!ほら、瑞希も帰るぞ!夕飯が遅くなるとじいさんがうるさいから。」
瑞希の制服のポケットに手紙をねじ込むと何事もなかったかのように歩き出した。
「ちぇ~つまんないの。玲生は真面目すぎる。なあ、高志?」
「おまえが調子に乗りすぎるんだよ。」
同意を求めたはずの杉森にも睨まれて小沢は必死で弁解をはじめた。
「なんだよ、高志まで。俺ばっかり悪者扱いかよ。だって、男子校に通っていてだなあ。こんな機会に遭遇できるなんて滅多にあるもんじゃないんだぞ。」
小沢は男子校のわびしさを延々とこぼし続ける。
杉森と瑞希は呆れながらもその愚痴を聞いてやる。
玲生はそれには加わらず、三人の数歩前を険しい表情で歩いていた。
小沢の悪ふざけにそんなに腹を立てたわけではなかった。
玲生は自分でもわからない苛立ちを覚えていた。
目に見えない小さな棘が刺さって抜けないような、どうしようもない不快感だ。
杉森たちと別れて瑞希と二人きりになっても、玲生は無言で歩き続けた。
少女のことが鉛のように心に重い。
別に羨ましいとは思わない。
それなのにふさぎ込んでしまう自分の気持ちを玲生はどうすることもできなかった。
瑞希は瑞希で、玲生が何も話そうとしないので居心地の悪い思いをしていた。
沈黙に耐えられなくなったのは瑞希の方が先だった。
「俺、本当に下心があってあの子を助けたわけじゃないぞ。」
玲生は自分の思いにとらわれていて瑞希の存在を忘れていたことに気がついた。
瑞希の暗い表情を見て自分の未熟さを心の中で罵る。
「瑞希がそんなことするわけないじゃないか。俺が今考え込んでいたのは…」
何とか言葉をつむぎだす。
「今日の夕飯は何にするかな?と悩んでいたわけだ。」
なんて間抜けな返事だろうと玲生は我ながら呆れたが、ほころびかけた瑞希の表情を壊すまいと賢明に後を続ける。
「昨日は肉料理だったから今日は魚にするか?」
気まずい雰囲気を拭いさるように祖父譲りの茶目っ気たっぷりの笑顔でたずねる。
「大丈夫、今は旬じゃないから鯖ということはないよ。」
以前、瑞希が鯖でアレルギーをおこしたときのことを話題にする。
瑞希が思い出して笑う。
玲生は瑞希の笑顔にほっとすると同時に、自分の中の不可解な思いに覆いをかけた。
日曜日の昼下がり、玲生は一人で稽古を始める前の弓道場の準備をしていた。
いつもなら玲生が射場の掃除をしている間に、瑞希が的場であずちを整える。
けれど今日は瑞希の姿はない。
昼食もとらずに瑞希は出かけた。
何処へとはたずねるまでもなく知っている玲生だった。
瑞希の行く先には朝倉由紀奈が待っている。
先日の手紙がきっかけでつきあい始めた二人だった。
平日は弓道部の練習があるので、頻繁に会えるというわけではない。
それでも土曜日になると由紀奈は瑞希の稽古が終わるのを待って一緒に帰る。
玲生はいつも複雑な思いで一緒に帰る二人を見送っていた。
羨んだり、冷やかしたりする他の弓道部員とは違った思いで。
平静を装ってはいても、日増しに自分の感情を抑えるのが難しくなっていた。
そして今も、弓と矢を手にしていてさえ二人のことを考えずにはいられなかった。
悲鳴のような弦音とともに放たれた甲矢は大きく的を外れる。
つづく乙矢も鈍い音をたてて的の横の砂地に突き刺さる。
玲生は立射で矢立の矢が無くなるまで弓をひき続けた。
しかし、的中した矢は一本もない。
最後の一矢を弓につがえ引き分けた瞬間、断末魔の絶叫をあげて弦が切れた。
無茶なひき方をする玲生を非難するかのように頬に血の痕を残して。
切れた弦を拾いながら玲生はその場に膝をつく。
額から滝のように流れ落ちる汗に血がにじむ。
傷の痛みではない苦痛が玲生の心を焼いていた。
「射道には偽りは効かず、ただ真を尽くすのみ…」
突然声をかけられ、驚いてふりかえるとそこには祖父の姿があった。
「じいさん…」
祖父は的を見つめながら静かに続けた。
「射は正直でな。己をうつす鏡でもある。偽りや不真があれば必ず結果となって現れる。おまえの心が乱れたままではいくら行射しても的中はせんよ。」
玲生には返す言葉もなかった。
顔をあげることもできずに床を凝視する。
「あんまり情けない弦音を聞かせてくれるなよ。」
祖父はそれだけを言い残して弓道場を出ていった。
言われるまでもなく、玲生にもわかっていた。
わかってはいてもどうすることもできないからこそ、がむしゃらに弓をひいていたのだ。
一人残された玲生は重い疲れた動作で弓具をかたづけ始めた。
矢道のはずれ、井戸のところへ飛んでいた一矢が囲み石にあたって折れていた。
その傍らにある庭木を見上げると花水木が満開だった。
玲生は同じ響きの名を持つ友人のことを思う。
少女からの手紙のことで相談をもちかけられたのは最近のことだ。
交際を申し込まれて困っていた瑞希に対して、受けるようにすすめたのは他でもない玲生だった。
瑞希のためによかれと思ってしたことで、玲生は自分自身の心を傷つけていた。
身を切られるような苦しみは今までに経験したことのないものだった。
友人に彼女ができて感じる寂しさなんて単純なものではない。
明らかにまったく異質のものだった。
さんざん自問したあげく行き着いた、焼けつく思いの正体に玲生は愕然とした。
左の掌を水木の幹にあて、折れた矢を突き刺す。
「くっ……ぅ…」
玲生の血が水木の樹液と混じり合い、木肌を紅に染めた。
「まったく、どうして怪我なんかするんだよ?」
瑞希は昨日から何度この言葉を口にしたことか。
玲生の怪我を心配しつつも落胆の色を隠せなかった。
放課後、更衣室で袴の帯を締めながら再び溜息をついた。
玲生は制服のまま、申し訳なさそうにたたずんでいる。
左手に巻かれた包帯が痛々しい。
「言ってもどうにもならならないけど、玲生抜きで的前に立つの気が重いぞ。」
「ごめん…」
「怪我だから仕方ないけど。」
瑞希の言葉が玲生の心に刺さる。
「でも『真善美』の機嫌が悪くなるのだけは保証付きだ。覚悟しとけよ。」
「ああ、わかってる。」
瑞希の忠告は稽古が始まる前に現実のものとなった。
「試合前の大事なときに怪我をするとは何事か。不注意にもほどがある。」
部長の雨宮真の怒鳴り声が弓道場に響きわたる。
両脇にひかえていた善と美もそれぞれに文句を言う。
玲生と瑞希の参加で大会出場も夢ではなくなっていたからだ。
「すみません。弓はひけませんが一年の稽古をみますので。」
「当たり前だ!」
怒鳴られながら玲生は深々と頭を下げた。
どんなに怒鳴ったところで怪我が治るわけもなく、ようやく玲生は放免された。
いつものように礼に始まり弓道部の稽古が始まる。
玲生は先程の言葉通り、屋外で下級生の巻藁練習をみていた。
この時期、まだ的前に立たせてもらえない一年は退屈な巻藁練習をさぼりがちだ。
しかし、今日は玲生がみているのでいつになく熱心に稽古している。
そこへ、瑞希と杉森、小沢の三人が的前練習をこっそり抜け出してきた。
小沢は例によって明るい調子で声をかける。
「一年坊主たち、優しい先輩につきっきりで稽古をみてもらえていいなあ。」
一年は口々に肯定の返事をかえす。
玲生は教える手をとめて小沢に文句を言う。
「こら、稽古の邪魔をするんじゃない。」
それに対してこたえたのは杉森だった。
「息抜きくらいさせてくれよ。俺たちは中で厳しい先輩にしぼられているんだから。」
「まったくだ。」
同意したのは瑞希だった。
玲生は困ったように三人を見る。
「玲生が出場できないなら俺も試合に出るのやめようかな。」
突然の瑞希の発言に小沢が顔色を変える。
「やめてくれ。そんなことを言ったら『真善美』が益々怒り狂うじゃないか。」
「怒らせとけばいいのさ。俺はもともと競技会なんて出るつもりなかったんだから。自分で満足のいく行射が出来ればそれでいいんだ。」
瑞希は本気で言っているようだ。
目をふせながら玲生は溜息をつく。
「俺だって的前に立ちたいさ。でもこの手では弓はひけない。」
「わかっているけど、予選までに怪我が治るかもしれないじゃないか。玲生だったら前日まで稽古できなくたって出られるよ。」
瑞希はなかなか引き下がろうとしない。
「いくら何でもそれは無理だよ。」
困り果てた玲生を見かねて杉森が助け船を出す。
「そうか、やっぱり無理か。」
瑞希はがっくりと肩を落とす。
「瑞希、玲生には及ばないけど俺と小沢がついているからそんなに気を落とすな。」
杉森が瑞希を慰める。
「そうそう、『真善美』もついているぞ。」
小沢がまぜっかえす。
瑞希は嫌そうな顔で小沢を睨んだ。
弓道場から三人を呼ぶ怒声が響く。
玲生を残して三人は弓道場へ戻っていった。
その後ろ姿を寂しそうに見つめる。
皆と一緒に的前に立ちたい。
けれど玲生は自分の気持ちを整理できないままだった。
そして、それはそのまま行射に現れてしまう。
祖父の言葉通り、玲生が自分の心に決着をつけない限り弓を手にするわけにはいかなかった。
だから自分で手を傷つけた。
自分の心に決着をつけるといっても、それは容易なことではなかった。
瑞希に出会って強烈に惹かれたことは事実だが、一番大切な友人だと思っていた。
朝倉由紀奈が現れるまでは。
由紀奈が現れてからというもの、玲生の心は穏やかではなくなった。
今までは瑞希の側にいることが幸せだった。
それが今では瑞希の側にいることが耐え難い苦痛に感じるようになっていた。
夜の眠りは拷問さながらの苦しみを玲生に与えた。
夢の中の玲生の感情は正直だ。
情熱的なまでに瑞希を求める。
しかし、いつも瑞希のあからさまな拒絶で夢は終わる。
冷たい瞳に侮蔑の色を浮かべて瑞希は去っていく。
夢の中で叫んだ自分の声で目を覚ます。
全身が冷たい汗に覆われている。
しばし、夢と現実の間で混乱した瞳に見慣れた自分の部屋が映る。
暗い廊下に歩み出た。
しんと静まりかえって、動くものの気配はない。
祖父は囲碁仲間の温泉旅行に出かけて留守だった。
家には自分と瑞希の二人きり。
夢の余韻でまだ胸の鼓動が早い。
身体の中の熱い獣が蠢く。
玲生は自分の中に別の生き物がいるような気がして身震いした。
もう、初夏になろうというのに鳥肌立っている。
冷たくなった身体とは裏腹に、燃えるように熱くなった頭を冷やしに弓道場へ向かう。
雨戸の閉まった弓道場は真っ暗だった。雨戸の節穴から細い月明かりだけが差し込んでいる。
玲生は灯りをつけずに雨戸を一枚だけ開け、矢取道に出た。
清廉な月の光は祖父が矢道に低木のみで作り上げた小庭園に厳かな影を落としていた。
月明かりの下、矢道のはずれの花水木に誘われるように玲生は歩いていった。
水木の白い花が月に照らされ妖しい光を放っている。
寝間着の上着を脱ぎ捨て、側にある井戸の水を汲み、頭からかぶる。
先程の夢を頭から洗い流そうとするかのように。
しかし、いくら冷たい井戸水をかぶっても瑞希のことを頭から消すことはできない。
自分で自分に腹を立て、怒りにまかせて傷ついた左手を水木の幹に叩きつける。
白い包帯を巻いてある左手は、あっという間に朱に染まった。
「何やってるんだよ、気でも狂ったのか?」
突然、瑞希に腕を掴まれ、玲生は愕然と凍りついた。
「夜中に弓道場で何をしてるのかと思ったら、頭から水かぶって、拳を木に撃ちつけて。まったく、身体が冷たくなってるじゃないかよ。」
瑞希は玲生を引きずるようにして母屋に戻り、タオルを投げつけると救急箱を取りに出ていった。
玲生は瑞希に何と言い訳すればよいのかわからず、濡れたまま立ちつくしていた。
程なく救急箱を片手に戻った瑞希はそのままの玲生を見て呆れかえる。
「何ぼうっと立ってるんだよ。早く頭拭けよ。風邪ひくだろ?」
瑞希は怒りながら汚れた包帯を取り、怪我の手当てをしている。
「起きてたのか、瑞希。」
玲生はまともに瑞希の顔を見ることができない。
「トイレに起きたら、玲生が階段を下りていくのが見えたんだよ。」
手当てが終わり、包帯を巻き終えると瑞希は玲生を真正面から見据えた。
「理由を言えよ。こんなことしてたから怪我が治らなかったんだな?」
玲生はうつむいたまま答えない。
瑞希は更に問いつめる。
「的前に立ちたいって言いながら、試合には出たくなかったっていうのか?」
怒りを宿した瞳が玲生を刺し貫く。
「何でなんだよ。言えよ。」
怒気のこもった容赦のない声で追求され、玲生には逃げ場がなくなってしまった。
言い逃れることが出来ずに、乾いた喉からやっと声を絞り出す。
「朝倉由紀奈が好きなのか?」
瑞希の問いには答えず、反対に聞き返す。
「何?今はそんな話してるんじゃないだろ?はぐらかすなよ。」
「はぐらかしてるんじゃない。理由を言えって言ったじゃないか!」
堰を切って流れ出した感情はもはや止めることは出来なかった。
玲生は瑞希の両肩をつかみ、その瞳をじっと見つめる。
瑞希は声を荒げた玲生の瞳に危険なものが映るのを感じた。
これ以上聞いてはいけない。
聞いたら何かが壊れるような、そんな気がした。
瑞希はこの場を一刻も早く逃げ出したくなった。
記憶の底から警鐘が激しく鳴り響いている。
しかし、玲生は瑞希が逃げるのを許さなかった。
瑞希の行く手をさえぎり、力の限り抱きしめる。
「俺は瑞希が好きだ。」
瑞希よりわずかに背の高い玲生の声が耳元で響く。
しかし、頭が麻痺して玲生の言葉が遠くに聞こえる。
半裸の玲生に抱きしめられ、瑞希は呆然と玲生の体臭を感じていた。
今まで知らなかった玲生の臭い。
それは瑞希を心の底から怯えさせ、見えない鎖で身体を縛りつけた。
「俺が瑞希に交際をすすめたくせに、瑞希があの子と付き合いだしてから自分の気持ちに気がついた。冷静でなんていられなくなった。弓が引けなくなった。的に当たらなくなった。それで、手を潰した。」
玲生の唇が瑞希のそれに重なる。
突然、我にかえった瑞希は、思いきり玲生を殴り飛ばした。
「馬鹿野郎!何考えてんだよ!」
口の中が切れ、玲生の唇を赤く彩る。
「なんでだよ?俺は男なんだぞ。」
瑞希は怒りに唇を震わせている。
玲生は必死に自分の気持ちを訴える。
「男が好きなわけじゃない。好きになった人間が瑞希だったんだ。」
「それで俺にどうしろっていうんだよ?親友を失わないためにお前に抱かれろっていうのか?」
「ちがう!そんなつもりじゃ…」
「そんなつもりじゃなきゃ、どんなつもりなんだよ?」
瑞希の瞳は怒りから悲しみに変わり揺らめいていた。
泣きながら叫ぶ瑞希の姿は玲生の心を苛んだ。
何とかしたくて瑞希に触れようとした瞬間、その手は跳ねのけられた。
「触るな!俺は二度とごめんだ、あんな想いをするのは。…愛されたくて、我慢して、男なんかに抱かれるのは。」
玲生は何のことを言われているのかわからずに凍りついた。
瑞希の口から信じられない言葉がつむぎだされる。
「…俺は…愛されたかった。実の父親の顔を知らなかったから、優しくしてくれたから。好きだったのに、信じてたのに、義理の父親は俺の身体だけが目的だった。」
もはや瑞希の目に玲生の姿は映っていなかった。
玲生はどうしていいかわからずに立ちつくす。
「嫌だったのに…、抱かれた。何度も…何度も!ここに来て忘れていられたのに。今度は玲生が俺を抱くというのか?」
「そんなつもりはない、ただ俺は…」
「もういい。信じてたのに、親友だと思ってたのに!お前もそういう奴だったんだ!」
瑞希は怯えた小動物のように見えた。
涙に濡れた絶望の眼差しで玲生を見つめると逃げるようにして立ち去った。
一人残された玲生は自分の感情を解き放った結果を苦く噛みしめていた。
自分は瑞希の封印されていた過去をこじ開けてしまった。
あんなに弱々しげな瑞希を見るのは初めてだった。
夢のように冷たく蔑まれた方がましだった。
瑞希に殴られた頬が痛い。
心の方がもっと痛かった。
「ところで今月、昇段審査があるけれども瑞希くんは受けないのかね?」
夕食後、ふいに思い出したように徳衛は言った。
熱心にたずねるというのではなく、話のついでにといった軽い感じだ。
こたえる瑞希の方もあまり関心はないようにみえる。
「そうですね、ひと月くらい前に弓道部で希望者を募っていたかな。でも僕は段位には興味がないので申し込みませんでしたけど。」
「ほう、そうかい。興味がないかね。」
「はい、それが何か…?」
瑞希は徳衛の真意をはかりかねるといったふうに首をかしげる。
そこへ玲生が自分の湯呑みを手に台所からやってきた。
「そういえばそうだな。自分が受けるつもりがないものだから、うっかり忘れてた。」
「だから、おまえはぼけなすだというんだ。」
「悪かったな、ぼけなすで。」
玲生は祖父に一言言い返すと、瑞希に話を向けた。
「でも本当に瑞希は惜しいことしたよ。折角の機会だったのに。」
しかし、瑞希は少しも残念そうではない。
「いや、俺は段位を取るために稽古をしているわけじゃないから。」
「確かにそのとおりなんだけど、あの独特の緊迫感は経験の価値ありだぞ。審査だけに限らず、試合とか射礼でも同じだけど、物凄く緊張するんだよ。」
「そんなのいつも稽古しているときと同じ気持ちで行射すればいいだけじゃないか。」
「そう思うだろ?ところがそうはいかない。ここぞというときにかぎって雑念にとらわれたりするんだよ。それを日々培ってきた精神力で無念無想の域にもっていくんだ。」
ぱん!
「痛っ。」
徳衛が側にあった新聞を丸めて、玲生の頭を叩く。
「何を偉そうに言っとるか、まだ尻に殻をつけとるひよっこのくせに。」
「痛いな、何も叩かなくたっていいだろ。そうやって人の頭をぽんぽん叩くからぼけなすになるんだよ。」
途端に徳衛と玲生は言い合いを始める。
何とか相手を言い負かそうとする二人は段々話の筋からそれて、低次元のところで争っている。
瑞希は呆れると同時に、羨ましいとも思う。
二人に言えば否定するだろうが、仲のいい祖父と孫の関係だと思う。
自分の祖父は瑞希の父が外国人というだけで、口もきいてくれなかったというのに。
「そう思うだろ、瑞希?」
「いいや、瑞希くんは儂の味方だよな。」
「えっ?」
自分の思いに沈んでいたところに突然意見を求められ、瑞希は何とこたえればいいのかわからなかった。
「ええと、今度…機会があったら、僕も昇段審査を受けてみようと思います。」
咄嗟に見当はずれな返事をするが、瑞希の言葉を聞いて徳衛の瞳が意味ありげに光る。
「そうかね、受けてみるかね。もう、何日もないが入場の仕方など稽古せんといかんな。まあ、瑞希くんなら大丈夫だろうがね。」
「えっ、まさか今月の審査のことを言ってるんですか?でも僕は申し込みをしていないですよ。」
瑞希は驚いて徳衛の顔を見る。
玲生も同じように祖父を見る。
「いくら何でも今月の審査の申し込みは締め切ってるだろ?それとも連盟の知り合いにむりやり頼み込むとか?」
「誰がそんなことをするか。こんなこともあろうかと、とっくの昔に申し込んでおいたのだ。」
徳衛は瞼にまでかかる長い眉毛を得意げに動かしてみせる。
玲生と瑞希は唖然として顔を見合わせる。
ついで玲生がすまなさそうに瑞希に謝る。
「瑞希、自分勝手な爺でごめんな。気が進まなかったら拒否していいんだぞ。」
「玲生、おまえの分も申し込んであるぞ。」
そう言って徳衛は涼しい顔で茶をすする。
玲生は呆れ顔で絶句する。
「…っとに、食えない爺だぜ。最初からそのつもりで審査の話を持ち出したな。」
「爺とは何だ、けしからん!それが目上の者に対する態度か。」
似た者同士の祖父と孫は再び熾烈な舌戦を繰り広げ始めた。
瑞希は飽きもせずにその様子を眺めていた。
射位から的に向かって弓をひくのには二通りのやり方がある。
一つは立射といい、射位で立ったまま矢番えし行射する。
これは平常の稽古、高校競技、遠的競技などで行われる。
そして、もう一つは座射といい、射位で跪座して矢番えし、それから立って行射する。
こちらは射会、段級審査、大学・実業団などの競技会で行われる。
そこで、いつもは立射で稽古している弓道部も審査が近くなると座射での練習に変わる。
実際の会場でするように、入場・行射・退場までを一連の動きとして稽古する。
特に審査の場合は射技とともに作法・礼法が判断対象となる。
二段くらいまでであれば作法がきちんと身についていれば、とんでもないところに矢が飛ばない限り、一射も的に当たらなくても合格するというのが一般的な見解になっている。
また仮に弓や矢を取り落とす失策をした場合でも作法にそって対処できれば、それで善しということになる。
通常は審査を受ける者だけで座射の稽古が行われるが、今回の審査は段級こそ違うが弓道部全員が審査を受ける。
立ちの順番を待つだけでも大変なものだ。
審査を受けることになった玲生と瑞希も座射による稽古に加わった。
二人にしてみればいつも家の弓道場でやっていることにすぎないのだが、他の部員にとってはそうはいかない。
玲生と杉森以外の一年部員は審査が初めてというものばかり、また、二年は全員一度は審査を経験しているものの、作法を忘れてしまったなどという不届き者までいる。
いくら弓道は礼に始まり礼に終わるとはいっても、作法だの礼法だのより的に当てる練習の方が楽しいというのも、彼らの年頃からすれば当然のことかもしれない。
そのため、踏み出す足が違うだの、弓の角度が上がりすぎだの、先程から雨宮兄弟の怒声が飛んでいる。
では三つ子の三役はどうかというと、そこは三人とも初段の持ち主、作法はしっかりできている。
ただし、まるで軍隊の行進のようで優雅さのかけらもないというのは瑞希の批評だ。
それでも一緒の立ちに入る以上は息を合わせるよう努力しなくてはいけない。
異例のことになるが、瑞希は審査は始めてでも玲生と同じ段位を受ける。
受験する段級によって立ちの順番が決まるので、必然的に玲生と瑞希、雨宮兄弟の三人は同じ立ちで稽古することになるからだ。
こんなことなら審査など受けることにしなければよかったと瑞希は後悔していた。
そして、稽古に不満を感じているのは瑞希ばかりではなかった。
それぞれの部員が各々の理由で稽古に嫌気を感じていた。
その中で唯一の例外が玲生といえた。
いつものように楽しそうに稽古をしている。
今も立ちに入る前に弓道場の外で念入りに巻藁練習をしている。
大半の者が巻藁をさっさと終わらせて的前練習にいきたがるのに対して、玲生は自分で納得するまで巻藁に向かう。
「玲生を見るとほっとするな。」
弓道場の重苦しい雰囲気を嫌って外に出てきた瑞希はつぶやく。
いつの間にか杉森も外に出てきて瑞希の横に並んだ。
「玲生は本当に弓道が好きなんだな。また弓道はじめて良かったよ。」
突然、杉森に話しかけられて瑞希は驚いた。
杉森の方も普段は瑞希を苦手としているため、話し方が何ともぎこちない。
「玲生がまた弓をはじめたのは加賀のおかげだと思う。感謝する。俺は玲生が行射するところを二度と見られないと思ってた。」
瑞希もまた戸惑ったようにぎくしゃくとこたえる。
「別に…玲生が弓道をはじめたのと俺は関係ないから、感謝されても困る。いつかは弓をもう一度手にするつもりだったと玲生は言っていた。…杉森は玲生が弓道やめる前からの知り合いか?」
「いや、中学が違ったから直接会ったことは一度もない。でも、審査会場や競技会であいつはいつも目立ってたから。交通事故で弓道をやめたと聞いたときはショックだった。あいつは俺達の目標だったから。俺にとってはひとつ年上の先輩だったから、憧れの目標を失ったって感じだったけど。『真善美』なんかは同じ年だったから、ものすごく悔しかったんじゃないかな。」
「玲生がひとつ年上?」
「知らないのか。一年休学したらしい。俺は高校で玲生と同じクラスになるとは思ってもみなかったよ。」
「俺、知らなかったから、今まで散々ぞんざいな口のきき方をしたぞ。」
心底困ったように言う瑞希を杉森はおかしそうに見る。
「何を今さら堅苦しいこと言ってるんだよ。玲生はそんなこと気にするもんか。俺だって会っていきなり名前で呼んでくれって言われたぞ。」
瑞希は玲生に初めて会った日のことを思い出してくすくす笑う。
「何だよ、急に。」
「いや、俺も最初いきなり玲生に名前で呼ばれたから…」
話の途中で瑞希の顔から笑顔が消える。
二年の立石という部員が巻藁練習をしている玲生に近づいてきた。
立石は瑞希を呼びだした三人組の一人だ。
そして、瑞希たちが止める間もなく、立石はいきなり玲生の背中を足蹴にした。
不意をつかれて玲生は転びそうになる。
「背中を押されたくらいでよろけてどうする。足腰の鍛錬ができていない証拠だぞ。そんな弱い腰で三段を受けようなんてお笑いだな。」
立石達は一年の玲生と瑞希が自分たちより上級の段を受けることを妬んでいた。
悪質な嫌がらせに瑞希と杉森が怒って抗議しようとするのを玲生が押し留める。
「すみません。もっと足腰を鍛えるように努めます。」
立石は素直に謝る玲生をつまらなそうに一瞥すると立ち去った。
「何であんな奴に謝るんだよ。」
「いきなり背中を蹴飛ばされたら、誰だってふらつくじゃないか。」
瑞希と杉森はとめられた怒りを口々に玲生にぶつける。
「三年も稽古してなくてまだ一ヶ月くらいだろ、腰がすわってないのは本当だよ。」
笑って言う玲生に対して瑞希と杉森は溜息をつく。
「玲生、おまえお人好しの上に馬鹿がつくぞ。」
「悪いけど俺もすごく同感。」
そこへいつの間にかやってきた小沢が横から口を出す。
「俺は弓家が馬鹿をやってる方がいいと思うぞ。この頃みんな気がたってるじゃん。弓家がニコニコしてるとほっとするよ。」
小沢は玲生を誉めて言ったつもりなのだが、途端に瑞希と杉森に睨まれる。
「誰が玲生を馬鹿だと言った?俺は人が良すぎると言ったんだ。」
「そうだよ。玲生のことをへらへら笑っている阿呆みたいに言うなよ。」
二人から責められて小沢は首をすくめてみせる。
そこへ雨宮美の怒声が割ってはいる。
「こら、そこの連中、いつまで巻藁をやってるんだ。立ち稽古が始まるぞ。」
玲生、瑞希、杉森、小沢の四人は顔を見合わせると笑いながら弓道場へ向かった。
弓道場の黒板には立ちに入る順番に名前が書かれ、その下に当たりが記入される。
玲生は初段を受ける組の立ちの当たりをつけていた。
順に甲矢が放たれると、看的に入っている杉森が当たりを告げる。
それを受けて玲生が黒板に○や×を記していく。
真中の一人は筈こぼれで矢を落としたので無記入だった。
続いて乙矢が放たれ、大後(おち)がひき終わったところで瑞希が矢取りに入った。
手を打ち鳴らして射場に合図をした後、あずちに出る。
玲生が最後の当たりを黒板に記して射場をふりかえったとき、ありえない光景がそこにあった。
既に退場しているはずの真中の射手が弓をひいている。あずちには矢取りの瑞希が既に出ている。
「やめろ!」
玲生が叫ぶのと同時に矢は放たれた。
瑞希がゆっくりと後ろに倒れる。
「瑞希!」
弓道場が水を打ったように静まりかえる。
玲生はその場に凍りついた。
一番近くにいる杉森が瑞希に駆け寄る。
「加賀、大丈夫か。」
「ああ、大丈夫だ。腕をかすっただけだ。情けないことに驚いて尻餅ついた。」
杉森は瑞希に手を貸して起こしながら、大声で射場に叫ぶ。
「大丈夫です。腕をかすっただけです。」
その言葉に、凍りついていた玲生の心臓が再び時を刻みはじめる。
我にかえるなり、矢を放った二年生につかみかかる。
またしても例の立石だった。
「この馬鹿野郎、何てことするんだ。弓矢っていうのは人を殺す凶器にもなるんだぞ。瑞希が矢取りに入ったのは合図でわかっていたはずだろう。貴様、わざとやったな!」
玲生の拳が相手の顔面に炸裂する。
口から血を流しているのも構わずに、稽古着の襟元を殺しかねない勢いで締め上げる。
「やめろよ。ちょっと勘違いしただけだろ。」
立石の仲間が二人がかりで止めようとするが、玲生は二人をいとも簡単にふりはらってしまう。
「勘違いで射殺されてたまるか。今度やったらただでは済まないと言ったはずだぞ。」
玲生の物凄い怒りはおさまらない。
他の部員はあまりの迫力に近づくことができないほどに。
締め上げられた立石は失神寸前だった。
「玲生、もういいよ。大したことなかったんだから。」
的場から戻ってきた瑞希が玲生をとめる。
「ほら、俺はぴんぴんしてるだろ?」
瑞希に言われてようやく手の力を抜いた。
玲生の手から解放された立石は激しく咳き込んでいる。
玲生は大きく息を吸って気を静めると心配そうに瑞希を見た。
「瑞希、本当に大丈夫か?」
「こんなのかすり傷だよ。」
瑞希の白い腕に血がにじんでいるが、確かに傷は小さい。
小沢が救急箱から絆創膏を持ってきて、瑞希の腕に貼ってやる。
その瑞希に部員たちがかわるがわる声をかける。
その向こうでは雨宮兄弟が立石に厳しく説教していた。
十一月ともなると夜の外気は冷たい。
弓道場の雨戸をあけた玲生は冷えた空気に身をすくませた。
「急に寒くなったな。吐く息が白いや。」
「ちょっと前までは昼間なんか暑いくらいだったのにね。」
瑞希は草履を履いて的場へ向かう。
家の弓道場で稽古をするときも、まずはじめにすることは掃除とあずちを整えることだ。
瑞希はあずちに水をかけながら玲生に話しかける。
大きな声でなくても澄んだ空気に声が良く響く。
「今日の玲生、凄い迫力だったよ。普段穏やかなくせに怒ると恐いのな。前に渋谷でもそんなことがあった気がするけど。」
瑞希は思いだしてくすくす笑っている。
「笑い事じゃないぞ、人に向かって矢を射るなんて。本当に一歩間違っていたら瑞希は死んでいたかもしれないんだから。実際に稽古中の事故で頭に矢を受けて死んだ奴もいるんだからな。」
「…それを聞くとちょっと恐かったかもしれない。でも、幸いかすり傷だけだったし。」
「今日はたまたま運が良かっただけだよ。ああいう行為は絶対に許せるものじゃないんだ。」
玲生は大まじめで、頑として譲らない。
「自分が背中を蹴られたときは怒らなかったくせに、変な奴。弓道部の他の部員が心配してくれたのにも驚いたけど。」
瑞希は的をつけ終わって射場に戻ってくる。
玲生は静かに微笑んだ。
「さて、はじめようか。」
昇段審査は今週末に迫っている。
入場するところから始まる稽古にも自然と気合いが入る。
玲生が前に立ち、後に瑞希が続く。
この順は弓道部で稽古するときと変わらない。
ただ他の部員がいないだけだ。
二人の息合はぴたりと合い、的をはずすことはほとんどない。
その様は端から見るとまるで射技を競い合っているかのようだ。
しかし、相手を負かそうという心は微塵もない。
相手が上をいくなら、自分はさらにその上を。
より高見を目指して、お互いを高めあう。
滞ることなく、繰り返し繰り返し弦音は響く。
二つの魂が形成した神聖な空間は第三者の介入によって破られた。
「玲生、何故おまえが弓を手にしている?」
「…おやじ…。」
仕事で海外にいるはずの玲生の父、弓家秀徳(ひでのり)だった。
何の連絡もない突然の父の帰宅に玲生は驚いた。
秀徳もまた旅から帰ったばかりの格好だった。
玄関からまっすぐに弓道場へ来たようだ。
「急に休みが取れたから帰ってきてみれば、弦音がする。弓道場に来てみればおまえが弓をひいている。何故だ?どうしておまえは弓をひくことができる?母さんたちの命を奪った弓を!」
秀徳はつかつかとやってくると玲生から弓を奪おうとした。
玲生は咄嗟に弓を庇う。
「嫌だ、違うんだ。」
「何が違うんだ。それをよこしなさい。」
玲生と父親は弓を間に揉み合う形になった。
「ちょっと、待ってください。」
瑞希は思わず二人を止めに入った。
「何だ、君は?他人の家のことに口出ししないでくれ。」
はっとして手をひく瑞希の肩に優しく手が置かれる。
騒ぎを聞きつけてやってきた徳衛だった。
「瑞希くんは他人ではないよ。儂らと一緒に住んでいる家族だ。一年中家を留守にしているおまえさんよりもはるかにね。それはともかく、あとはおまえたち二人で心ゆくまで話し合いなさい。この弓は儂が預かる。さあ、瑞希くん、儂らは向こうに行っていよう。」
瑞希は徳衛に促されて弓道場を後にした。
「あの、おじいさん、ありがとうございます。。」
「礼には及ばんよ。孫は爺に向かってそんな丁寧な言葉は使わんものだ。」
徳衛はいつも玲生にするように瑞希の頭をくしゃくしゃと撫でた。
二人きりになると長く家を留守にしていた父は息子の顔をしげしげと眺めた。
最後に会ったのは今年のはじめ正月休みの頃だった。
一段と背が伸びて自分を見下ろすまでになったというのに、顔立ちは相変わらず母親の面影を宿して優しい。
秀徳の心に苦い記憶がよみがえる。
愛する妻と母親の死。
自分の息子が可愛くないわけがない。
それでも愛する者の死は耐え難く、妻の面差しにそっくりの息子を見るのは辛かった。
秀徳は今だに過去の悲しみをひきずっていた。
「あの子が手紙で知らせてきた下宿人か?」
家は留守にしていても、必ず息子の手紙には目を通す父だった。
「そうだよ。一緒に弓をやっている。じいさんはもう教えないから、学校の弓道部に入っている。」
玲生は矢道に目をおとしながら言った。
秀徳はその玲生の肩をつかんで揺さぶる。
「彼が弓をひくのは彼の自由だ。この弓道場を使うのもいいだろう。だが、おまえは弓をやめたはずだろう。おまえは母さんたちのことを忘れたのか?」
「忘れてなんかいない。でも母さんたちは死んだんだ。俺が弓をやめたって生き返らない。」
「それでおまえは私に隠れてこそこそと弓をひいていたわけか。」
秀徳は怒鳴ると同時に玲生を殴っていた。
玲生の口の端に血がにじむ。
怒りに拳をふるわせている父を前にしても、玲生は怯まなかった。
「こそこそとなんかやってない。先月始めたばかりなんだ。父さんには電話じゃなくて直接言おうと思っていた。俺は弓をひくのが好きなんだ。」
もう一度秀徳の拳がとぶ。
あまりの勢いに玲生の身体は壁まで吹っ飛んだ。
その振動で壁にかけられた額縁が落ちて割れた。
「どうしてそんなことが言える?おまえが弓をやっていなければ、母さんたちは死なずに済んだかもしれないんだぞ。」
「俺が弓をやっていなければ。審査に車で行かなければ。対向車が飛び出してこなければ。そんなことはいくらでも言える。でも俺は弓をやっていた。母さんたちは死んだ。その事実は変えられない、永遠に。」
「まだ言うか。」
そんなことは秀徳もわかっていた。
わかってはいても認めたくない父だった。
秀徳は玲生の襟元を持ってひきずり起こす。
今度は玲生も黙ってやられてはいなかった。
「親父の分からず屋。」
反対に殴り返す。
母達が生きていた頃もそうだったように、父と子の殴り合いはお互いに疲れて動けなくなるまで続いた。
最後には二人とも大の字にのびたまま動かなくなった。
やがて冷えた汗に身震いするまで。
「私も年をとったな、いつの間にか身長も追い越されて。今に腕力でもかなわなくなるか。」
秀徳は上半身を起こすと息子の顔を見つめた。
愛おしそうにその頬に触れ、額に汗ではりついた髪をかき上げてやる。
「髪を切ったんだな。母さん譲りの綺麗な黒髪だったのに。玲生はそんなに弓が好きか?」
「…うん…。」
「そうか。」
といって秀徳は盛大なくしゃみをする。
玲生もつられたようにくしゃみをする。
「これ以上ここにいたら風邪をひく。母屋に行こう。」
秀徳は先に立ち上がり玲生に手を差し出した。
玲生は父の手につかまって起きあがる。
「親父も、まだ若いよ。俺と互角にやれるんだから。」
「ばかもん、図に乗るな。手加減してやったんだ。」
あくまでも負けを認めたくない父だった。
休暇中の秀徳は昇段審査当日、会場まで玲生と瑞希を車でおくっていくという。
玲生はこわばった表情で断る。
「俺が勝手に審査を受けに行くんだから、おくってくれなくていいよ。」
玲生は三年前の審査の日、母に車でおくってもらったことを思い出していた。
父は息子の暗い顔を見ると、ぎゅっと両の頬をつねった。
「いっ痛、何するんだよ。」
「そら、いい顔になった。ぐずぐず言ってないで弓を車につみなさい。私に反対されても始めた弓だろう。どれほど好きか見せてもらおうじゃないか。さあ、瑞希くんも早くしないと遅れるよ。」
長さが二メートル以上もある和弓を助手席から入れて、後ろの席に玲生と瑞希が座る。
秀徳の運転する車が勢いよく走り始める。
瑞希はルームミラーに映る秀徳を眺めていた。
気をつけてみなければわからないが、うっすらと顔に痣が残っている。
先日、弓道場から玲生と二人して顔を腫らして戻ってきたときにはどうなることかと思った。
倒れるまで殴り合う親子など、瑞希には信じられなかった。
しかし、今では二人とも何事もなかったようにしている。
父と息子とはそうしたものなのか、物心つく前に父と死別した瑞希にはわかりようがなかった。
まして、義理の父との間では考えられないことだ。
瑞希は他人にはおろか、実の母にも滅多に本心を明かしたことがなかった。
弓家の家が特別なのかもしれないとも思う。
再びミラーに映る秀徳を見る。
玲生は母親似だと言うけれど、目元など秀徳とよく似ていると思う。
それはとりもなおさず徳衛にも似ているということだ。
徳衛、秀徳、玲生、親子三代にわたって、顔だちや性格の根幹が一緒なのだ。
玲生も年をとるにつれ、秀徳を経て、徳衛のようになっていくのだろうか。
想像するとおかしくてしようがない。
抑えようとするのだが、口元が笑ってしまう。
「瑞希くん、ミラーに映る私を見てどうして笑うんだね?」
「瑞希、俺と親父を見比べて笑うのはやめてくれ。」
同時にこたえる親子だった。
その後は交通渋滞に巻き込まれることもなく、順調に審査会場に到着した。
「それじゃ、行ってきなさい。私は弓道場の方で見ているよ。」
駐車場に車を止めると秀徳は言った。
「うん、行ってくる。」
「おくっていただいてありがとうございました。行ってきます。」
頭を下げる瑞希の肩を秀徳がつかむ。
「瑞希くん、他人行儀はなしだよ。玲生のように立ってる者は親でも使えという息子もいるんだから。堅い挨拶は抜きにしよう。」
「…はい…」
やはりよく似た親子だと瑞希は思った。
地区審査は大学の施設を借りて行われる。
正門を入ると案内板があり、更衣室となる建物や弓道場の位置などが表示されている。
特に受付のようなものはないので、玲生と瑞希はまず更衣室となる五号館へ向かった。
広い構内を歩いていくにつれ弓矢を持参している人の姿は増えていき、目的の五号館前は学生から一般の人まで多くの人で混雑していた。
特にこの日の時間割と立ちの順番が貼ってある階段付近は貼り紙を見ようとする人と通り過ぎようとする人で押しあうようだ。
筆記と実技試験の開始時間は受験をする段によって違う。
実技は初段までが午前中、二段以上は午後からだった。
筆記試験は午前午後がその逆になる。
玲生と瑞希は三段で午後の実技、杉森と雨宮兄弟も二段で午後となる。
他の弓道部員たちは午前中が実技といった具合だ。
開会式で連盟理事などの長い演説を聞かされた後、いよいよ審査は始まる。
玲生と瑞希は午前中の筆記試験を難なくこなし、午後の実技にのぞんだ。
弓道場へとつづく道は両側が銀杏並木になっている。
この季節、銀杏はすっかり黄色に色づいて、落ち葉に覆われた道はまるで黄色の絨毯を敷き詰めてあるようだ。
そして、時折吹く風に落ち葉が舞うと、よりいっそう風情が増す。
辺りはこれから実技試験を受ける者や、終わって見学している者などでにぎわっている。
この弓道場の矢道は片側が檜葉の垣、矢取道は植木で仕切られているだけで板塀はない。
矢を防ぐものが何もないところに人が立って見物しているのだから、それだけでも初めて審査を受ける者は緊張する。
万が一、とんでもないところに矢が飛んでしまったらと考えるだけで恐ろしくなるのだ。
しかし、見ている方は以外に平気で矢道横に立っている。
玲生と瑞希もしばらく二段の実技を眺めてから、入口へ向かった。
「久しぶりだな、この緊張感。」
玲生は素直な気持ちで審査を楽しんでいた。
再び、この場所に戻ってきたことを喜んでいた。
それに対して瑞希は先程から無言だった。
玲生は瑞希をふりかえる。
「どうした、瑞希?」
「…指が…」
弓と矢を握りしめた指が緊張のあまりこわばっていた。
「情けないな、俺。偉そうなこと言ったくせに。」
玲生は苦笑する瑞希の指をほぐしてやった。
「情けなくなんかない。みんな緊張するんだ。でもいつも通りにすればいいのさ。幸い立ちの順番は俺が先で瑞希が大後だ。いつも稽古しているときと同じ。まわりなんか見るな。俺の弦音だけを聞いていろ。さあ、行くぞ。」
玲生は笑顔で瑞希の背中をぽんと叩く。
不思議なことに瑞希の肩から力が抜けた。
自分とまわりの空間が遠ざかっているような感覚も消えた。
瑞希の頭に玲生の声が響く。
(俺の弦音だけを。)
「玲生の弦音だけを。」
瑞希は口の中で小さく呟くと、真っ直ぐに頭を上げて入場した。
半眼にして跪座で弓ひく時を待つ。
静かだ。
澄んだ湖面のように心が落ち着く。
足踏み、胴造り、弓構え、打起し、いつも通り、玲生の息合に自分の息合を重ねる。
玲生の弦音が響く。
心地よい弦音に酔いながら引分け、自分も会を迎える。
絶妙の離れ、弦音の余韻。
かつてない最高の充足感を瑞希は感じていた。
学校の弓道場は校庭のはずれ、雑木林の中にひっそりと建っている。
一般の生徒の中には弓道場の存在すら知らない者さえいる。
その人気のない雑木林の中を玲生は弓道場に向かっていた。
うっかりすると見失ってしまいそうな細い道は弓道部員によって踏み固められ、いつしか自然にできたものだ。
そのために木立を避けて出来上がった道は曲がりくねっていて先が見通せない。
弓道場に近づくにつれ、鬱蒼とした木々の間に弦音が響きわたり、やがて建物が姿をあらわす。
外では、一年生の部員がそれぞれに巻藁練習や素引き練習を行っていた。
玲生はその中に瑞希の姿を見つけて声をかける。
「瑞希、今日は暑いな。来週から衣替えだっていうのに。」
「ああ、今日みたいな日は外にいられることに感謝するね。弓道場の中は暑苦しいぞ。」
瑞希は玲生ににこやかにこたえたものの、最後の言葉には上級生に対する皮肉がこもっていた。
昨日の今日とあっては無理のないことかもしれない。
玲生としても一人によってたかって暴力をふるうような輩は許し難いところだが、皮肉には気づかなかったかのように明るくこたえる。
「まあね、夏はうだるように暑く、冬は凍えるように寒い。それが弓道場というものさ。今日なんか快適な方だね。さてと、噂の先輩達にご挨拶といこうか。」
玲生は襟元をきちんととめると弓道場の中へと入っていった。
玲生が建物の中に姿を消すと、瑞希は何事もなかったように巻藁練習へと戻った。
玲生が弓道場へ来た理由は既に知っている。
瑞希が心配することは何もない。
しかし、他の弓道部員にとってはそうではない。
そこかしこで、ひそひそと囁き交わす声が聞こえた。
そんな部員達をよそに弓道場の中では玲生が部長に取り次ぎを頼んでいた。
二学期になって三年生の姿がなくなった弓道場の中では二年生だけが的前練習をしていた。
「部長、入部希望者が来ておりますが。」
矢取りにひかえていた一年生が大きな声をはり上げる。
その声にこたえて、三人の二年生が玲生の方にやってきた。
今、玲生の前には同じ目線の高さに三つの同じ顔が並んでいた。
骨張った顔だちに短く刈り込んだ髪、筋肉質の身体はいかにもといった雰囲気だ。
三つ子とは話に聞いていたが、髪型から体型までこうも似ていると不気味なくらいだ。
部長の雨宮真(まこと)、副部長の雨宮善(ただし)、会計の雨宮美(きよし)と名のられたものの、立ち居場所を変えられたらわからなくなることは確実だった。
三人あわせて『真善美』。
弓道が目指すところの崇高な目標だ。
あまりにもぴったりな名前に玲生は笑いたくなるのをぐっとこらえた。
「一年A組弓家玲生、入部を希望します。」
無遠慮な切れ長の三つの視線が玲生を睨付ける。
「随分時期はずれの入部希望だな?君は確か我々が入部の勧誘をしたとき断ったはずじゃなかったか?」
「そうだ。弓道は中学の時にやめたと聞いたが、やめたり、始めたり、忙しいことだな。」
「いくら有段者といっても、いい加減な気持ちで弓道をやるのは許さんぞ。」
まるで一人の人物が話しているかのように、同じ声が三人の口から発せられる。
その言葉にはかなり含むところがあるようだ。
とても歓迎されているとはいえない。
部員達はどうなることかと興味津々の面もちで成りゆきを見守っているが、当の玲生はいたって落ち着いている。
「弓道から離れていたのは私的な理由ですが、いい加減な気持ちで弓を手にしたことは一度もありません。時期はずれという理由だけで入部の許可をいただけないのですか?」
玲生の態度に気負ったところは微塵もない。
三つ子の三役は落ち着き払った玲生の態度に拍子抜けの顔をしている。
しばらく三人で何やら話し合ったかと思うと、意外なほどあっけなく玲生の入部許可はおりた。
それでも一応は部長の雨宮真が不承不承といった口調で玲生に告げる。
「この入部届けは顧問の先生に渡しておく。ただし、経験者だからといって特別扱いはしないぞ。新入部員として素引、矢取りからやってもらう。それでよければ明日から稽古に出るように。」
「ありがとうございます。それで結構です。」
玲生は一礼して踵を返す。
後ろでは部員達に練習に戻るように指示する三つ子の怒声が響いていた。
弓道場を出ようとする玲生とすれ違いに、外で稽古していた部員達が入ってきた。
最後に入ってきた瑞希が玲生に尋ねる。
「どうだった?」
「入部の許可がおりたよ。俺も明日から稽古に出る。」
「そうか、よかった。」
「それより…いや、的前練習が始まるぞ。もう行った方がいい。俺は今日はもう帰るよ。」
玲生は言いかけた問いかけをのみこんだ。
それは玲生がいくらたずねても瑞希がこたえない事実だった。
誰が瑞希に暴力をふるったのか。
二年生であることは間違いないが、三つ子の三役でないことはあきらかだ。
雨宮兄弟は頭は固そうだったが、公正だった。
無抵抗の者に暴力をふるうことなど彼らには考えることもできないだろう。
瑞希に暴力をふるった者は他にいる。
玲生がそんなことを考えながら帰ろうとすると、人影が行く手を遮った。
まだ、外に残っている部員がいたのかと顔を上げると様子がおかしい。
その三人は明らかに玲生を追いかけてきていた。
玲生の視線がすうっと鋭いものになる。
無言のうちに囲まれ、弓道場の裏手の雑木林に連れていかれた。
最初に言葉を発したのは玲生の方だった。
「先輩方は的前練習に行かなくていいんですか?」
それに対する答えは返ってこなかった。
「雨宮に入部を許可されたからといっていい気になるなよ。」
三人の内の一人が玲生の肩を突きとばす。
玲生は半歩退いただけでそれを受け流した。
「別にいい気になっているつもりはありませんが。」
「その態度が生意気だって言ってるんだ。だいたいそんな長い髪の毛が弓道部で許されると思っているのか。」
玲生の後ろにまわった一人が髪の毛を鷲掴みにしてぐいとひっぱる。
玲生は冷めた瞳で三人を見た。
いわゆる今時の高校生といった風貌の三人は真剣に武道を志すタイプには見えない。
言いがかりをつける三人の方こそ、長めの髪で明るい色に染めている。
そもそも校則で何も禁じていないのだから非難されるいわれはないのだが。
玲生は無造作に髪をつかんでいる手を振り払った。
「いい態度だ。さすがにあの加賀とつるんでいるだけあるな。おまえにも先輩に対する礼儀というものを教えてやろう。まずはその髪を新入部員らしくしてやる。」
二人が玲生の両脇から腕を押さえ、残る一人が玲生の正面に立った。
その手には弓の弦を張るときに使う小刀が握られていた。
三人の低俗な意図を知って、玲生の瞳がさらに冷たいものになる。
「こうやって加賀にもその先輩に対する礼儀とやらを教えたわけですか?だが…」
玲生は言うが早いか、両脇の二年の顔に肘鉄をいれ、正面の相手の手から小刀をもぎ取りざま腹を蹴りあげた。
「生憎と俺はおとなしくなんかしていませんよ。」
玲生の声が別人のように響く。
二人は顎をおさえながら、一人は咳き込みながら思いがけないものを見てしまったように目を丸くしている。
「…が、一応先輩としてたててあげますよ。」
玲生は相手から奪った小刀で、自分の髪を束ねた根本からばっさりと切った。
切った髪と小刀を二年生に向かって差し出す。
「さあ、あなた方の望み通りだ。だが、今度加賀に対して卑怯な手段を使ったら、ただでは済みませんよ。」
玲生は特に声を荒げているわけではない。
しかし、その静かな声が普段の温厚そうな玲生からは想像できないほど恐ろしいものになっている。
三人の上級生は悔しそうにしながらも、玲生の迫力に気圧されて言葉が出てこない。
まるで雑木林の中で野生の獣に出会ってしまったかのように、玲生の目をじっと見つめたまま動かない。
そのとき、がさがさと下生えを踏みしめる音がした。
その音で呪縛を解かれたかのように、三人は脱兎のごとく立ち去っていった。
玲生は残された自分の髪と小刀を手にやれやれと息を吐く。
三人とすれ違いに姿を見せたのは瑞希だった。
「玲生、その髪!」
無惨に切られた玲生の髪に瑞希はしばし絶句した。
「あいつらの仕業か?あいつらが弓道場を出ていくのが見えたからもしやと思って…。」
言い終わらないうちに三人の後を追いかけようとする瑞希の手を玲生がつかまえる。
「違うよ瑞希。俺が自分で切ったんだ。」
いつもの穏やかな玲生の声に戻っている。
瑞希の方が怒りを声ににじませる。
「そんなわけないだろ、事故の時から髪切ってないって言ってたじゃないか。」
玲生の手をふりほどいて行こうとする瑞希の手をさらにしっかりとつかまえる。
「本当だよ。俺はまた弓を始めるんだ。もうそんなことにこだわっているべきではないんだ。」
「…玲生…」
「悪いけど、これを返しておいてくれるかな。弓道部の備品らしい。あと、これも捨ててくれると助かる。」
玲生は小刀と切った髪を瑞希に差し出す。
瑞希は黙ってそれを受け取った。
「それじゃ、俺は床屋に寄って帰るよ。俺に理容師の才能はないみたいだ。」
玲生は笑顔で言って立ち去った。
瑞希は玲生の髪を握りしめたまま、しばらくその後ろ姿を見送っていた。
翌日の放課後、玲生は廊下で隣のクラスの授業が終わるのを待っていた。
玲生は時間でぴたりと終わる現国の授業だったものの、瑞希はいつも長びく日本史の授業だった。
同じクラスの弓道部員・杉森高志が部活に行こうと声をかけてくれたが、瑞希を待つからと言って先に行ってもらった。
終業のベルが鳴って十五分も過ぎ、ようやく日本史の先生が出ていくと教室の中は途端に慌ただしい帰り支度で騒がしくなる。
玲生は教室の中をのぞき込み、窓際の一番後ろにいる瑞希に声をかける。
「瑞希、弓道場に行こう。」
「ああ、来たな。今行く。」
瑞希が教科書をしまいながら笑顔をかえす。
その場に居合わせた者は滅多に口をきかない瑞希の声を聞き、ほとんど見たことのない瑞希の笑顔を目にして驚いた。
つづいて羨望と嫉妬の注視が入口に立っていた玲生にそそがれる。
玲生は思いがけない隣のクラスの反応に心の中で舌打ちした。
瑞希はそんな気まずい雰囲気に気づきもしないで玲生のところに足早にやってくる。
「お待たせ、さあ、行こうか。」
と行きかけて何を思ったのか急に立ち止まり、玲生の短くなった黒髪をかき上げる。
「玲生は短い髪も似合ってるよ。」
玲生はどきりとして後ずさる。
瑞希は髪を切った玲生を昨日から見て知っているはずなのに、なぜ突然こんなときにそんなことを言い出すのか。
驚きのあまり、あやうく瑞希の手をはらうところだった。
玲生は咳払いでごまかして、弓道場へと向かう。
一刻も早くその場を離れたい気持ちだった。
猛然と歩く玲生に瑞希が何事かと問いかける。
玲生はくるりと振り返ると瑞希にむかって言った。
「鈍感。」
「え?」
「鈍いって言ったんだ。」
瑞希は何のことかわからないといったふうに怪訝そうに眉根をよせる。
玲生は大きな溜息をついた。
「俺は今、瑞希のクラスの連中に嫉妬の眼差しで睨まれたんだぞ。」
「なんだ、それ?」
瑞希は益々わからないと不機嫌そうな顔になる。
「瑞希は全く自覚がないけど、瑞希のクラスの奴等はみんな瑞希と友達になりたがっているということさ。たった今、瑞希が俺に笑顔で返事をしたというだけで俺は睨まれたんだから。いや、今にして思えば前から妬まれていたかもしれない。毎朝、瑞希と一緒に登校してるんだから。」
「ちょっと待てよ。俺は嫌がらせはされたことはあっても、お友達になりましょうなんて言われたことは一度もないぞ。」
玲生は再び大きく溜息をつく。
「小学校の時、好きな子をわざといじめる奴がいなかったか?」
玲生の例えに瑞希は過剰なまでの反応を示した。
「それは女の子の場合だろ!俺は男だぞ。男子校だからって女のかわりにされてたまるか!」
瑞希は玲生がたじろぐほどに怒っていた。
「誰も瑞希を女だなんて言ってないだろ?」
「言ってる。嫉妬するだの、妬まれるだの、結局はそういうことじゃないか。」
今度は瑞希の方が玲生を置き去りにして弓道場へ行ってしまった。
「違うって。どうしてこうなるんだ?」
瑞希の後を追いかけながら、玲生は困り果てて頭を押さえた。
弓道の稽古は礼に始まり、礼に終わる。
それは学校でも、一般の弓道場でもかわりはない。
弓道部の練習は部長の号令とともに始まる。
文字通り遅刻は厳禁だ。
特に一年生は練習の開始までに弓道場の掃除を終わらせなければならない。
当然モップなどは使わない雑巾掛けだ。
玲生と瑞希はぎりぎりで掃除が終わる前に着替えて弓道場に入ることができた。
「遅いぞ、玲生。」
先に来ていた杉森が文句を言う。
「悪い、高志。日本史の浜田が十五分も授業をオーバーしたんだ。」
「だから加賀なんか待ってないで、俺が誘ったときに一緒に来れば良かったんだ。」
杉森は不満気な視線を瑞希に向けた。
玲生はそれと知れないように杉森の視線をさえぎる。
「さて、俺達は何をすればいいのかな。」
「的付けがまだだよ。」
「わかった。瑞希、俺達は的場に行こう。高志、射場から的の高さを見てくれ。」
玲生はそう言うと、まだ何か言いたそうにしている杉森を残して的場へ向かった。
瑞希も無言で玲生の後を行く。あずち横の的置場で的と侯串を取り出す。
「的は何個付けにするんだ?」
玲生は弓道部では先輩にあたる瑞希にたずねる。
「…五個付け。」
不機嫌そうな返事がかえる。
「まだ、さっきのことを怒っているのか?」
玲生は的をつける手は休めずにきいた。
瑞希は返事もせずに黙々と的をつけている。
玲生はそれでも構わずに話し続けた。
「俺は謝らないぞ。瑞希のことを女の子みたいだなんて一言も言ってないんだから。正直に白状すれば、初めて会ったときは一瞬だけ思ったことはある。ただし、それ以外は一度だってそんな風に思ったことはない。瑞希はおよそ女々しくなんかないし、腕っ節も強い。だけど、咲いている花を単純に美しいと思うのと同様に、瑞希の容姿が綺麗だと思うのも事実だ。瑞希は自分の顔が嫌いだと言うけれど、俺は瑞希の顔は好きだ。だからといって顔で友達を選ぶわけじゃない。外見も性格も何もかもひっくるめて瑞希という人間と友達になりたいと…。」
返事をしなければ延々と続きそうな玲生の真剣な言葉を瑞希は押し殺した声でさえぎった。
「もういいよ。わかったからやめてくれ。聞いてる方が恥ずかしくなる。」
瑞希は玲生の方を見ようともせずに最後の的をつけているが、横顔に困ったような戸惑いがあらわれている。
それは瑞希が人から好意を示されたときに必ず見せる表情だった。
弓道部の稽古が始まると玲生はしばし全てを忘れて夢中になった。
祖父に弓道の教えを受けた玲生にとって学校弓道は疑問に思うところも無きにしもあらずといったところだが、弓道の根幹はどこで習おうと同じものだ。
玲生はあらためて弓道を始めたことで、自分がどれほど弓道を好きであったかを今さらのように知った。
延々と素引と巻藁練習をいいつけられても、矢取りも看的も楽しくて仕方がないといったふうにこなす。
玲生はそれらを意識的にやっているわけではないのだが、そういった姿勢はいつしか他の部員にも好意的に受け入れられていった。
特に同学年の部員達のよせる信頼は大きなものだった。
先輩より玲生に型を見てもらおうとする者までいる。
そのことで上級生の中には反感を持つ者もいたが、数の上では少ないもので表立ってからんでくることはなかった。
例の三人の二年生もあれ以来、玲生と瑞希に嫌がらせをする気配はない。
そして、上級生の中で玲生の弓道に対する真面目な姿勢を誰よりも認めてくれたのは、他でもない三つ子の雨宮兄弟だった。
ただ、彼らには弓道とはこうあるべきという独特の信念があるので、玲生や瑞希とは意見が対立するのだった。
細かい問題はあるにしても一ヶ月が過ぎる頃には、玲生はすっかり弓道部に馴染んでいた。
弓道部での稽古は立射になる。
瑞希はこの立射による稽古があまり好きではない。
特に弓道部での立射は慌ただしく、瑞希の息合とあわないことおびただしい。
玲生は矢取りや看的に入って瑞希の的前練習を見るたびに、やれやれと頭を押さえたものだ。
瑞希も他の部員もお互いに、全く息を合わせようというつもりがない。
瑞希は自分の気息で優雅に行射を行い、他の部員は当たりをねらった力強い行射を行う。
その結果、実にちぐはぐな見苦しい行射となるわけだ。
弓道は一見相手のない個人技のように思えるが、実はそうではない。
もちろん一人で的前に立つのであればそれでいいのだが、複数で的前に立つときは他との調和が求められる。
あるいはそれが礼であるといってもいいかもしれない。
弓道はただ的に当たればよいというものではない。
どんなに見事な体配をしていても他に礼を失していれば、画竜点睛を欠くというものだ。
瑞希が一人で弓をひくとき、その気息は流れる笛の調べのように滑らかだ。
しかし、それを人と共有することが瑞希にはできない。
玲生にも自分の息合いというものはある。
しかし、祖父が指南する弓道場で多くの門下生と一緒に稽古をしていた玲生は人と息を合わせることを知っている。
だから玲生にとって、それは苦でも何でもないものだった。
そこで的前練習の許しがでて、瑞希達と一緒に的前に立てるようになると、玲生は部長の雨宮に提言をした。
立ちで玲生を瑞希の前に、そして、瑞希の後には杉森を入れてくれるように。
瑞希の入る立ちは以前から問題があったので、雨宮はあっさりと許可してくれた。
また、そのことに文句を言う者も一人もいなかった。
いや、実際には一人だけ文句を言った者がいる。
「何で俺が加賀の後に入らなくちゃいけないんだよ。」
杉森は玲生を弓道場の外に連れ出して抗議した。
「すまないけど、おまえしか頼めるやつがいないんだよ。『真善美』の息合はあの通りだし、中学から弓道やってるおまえだったら瑞希の息合にあわせる事なんか簡単だろ?」
玲生にこう言われては杉森に否とは言えない。
「…う…まあな。」
渋々と立ちで瑞希の後に入ることを了承した。
「次の立ち、雨宮善、弓家、加賀、杉森、雨宮真。」
黒板に当たりをつけている一年生が次の立ちの名前を呼ぶ。
控えで玲生と杉森に挟まれて立つと瑞希は不機嫌この上ない顔をした。
(何をこそこそやってるんだ?)
稽古中は私語禁止なので、口に出してこそ言わないものの、立ちの順番を画策した玲生に対して瑞希は非難の視線をあびせる。
しかし、前立ちの弦音で揖をして射位に進むと瑞希の表情は変わった。
行射が進むにつれ、他の部員達の顔つきも、おや?と変わる。
今まで瑞希が入っている立ちは必ず息合がばらばらだったものが、今日は違っていた。
流れるように行射が行われる。
その結果、自然と弦音も冴え、当たりも良くなる。
「射!」
看的に入っている一年がたてつづけに当たりを告げた。
立ちが終わると、どこからともなく溜息が漏れた。
続く立ちも調子があがる。
他の者の調子がいいと、つられて当たりが良くなるものだ。
その日の稽古はいい雰囲気のうちに終わった。
着替えて帰ろうとしている杉森に瑞希が声をかける。
「今日は…息合を合わせてくれて…ありがとう。」
瑞希にぽつりと礼を言われて杉森は驚いた。
「べ…別に俺は何もしてないから礼を言われる筋合いはない。でも今日の稽古はよかったな。じゃあな。」
杉森は照れくさそうに言うと走って行ってしまった。
「玲生も…すまない。玲生が部長に頼んだんだろ?俺、初めて人と息合を合わせて行射することができたと思う。」
「礼なんか言う必要ないよ。でも今日の行射は気持ちよかったな。俺も三年ぶりの立ちにしてはいい出来だったよ。明日も頑張ろうな。」
玲生が笑顔で言う。
「ああ。」
と瑞希が返事をする。
そのとき、一年の小沢が追い越し際に瑞希に声をかけた。
「加賀、今日の行射良かったぜ。」
瑞希の顔にはあのいつもの戸惑った表情が浮かんでいた。
男子校の生活はむさ苦しい。
多感な年頃に同性だけの集団の中に身を置く彼らにとって、学校生活以外の関心事は必然として異性のことになる。
他校の女学生に憧れ、芸能界に自分の理想の女性を見出す。
それは味気ない学校生活に彩りを添えるありふれた風景だ。
その男子校の中にあって、あり得ない存在が加賀瑞希だった。
入学当初、校内で初めて瑞希を見たものは必ずぎょっとした。
美少女が校内に紛れ込んだのかと思うのだ。
学校の制服を着ているのだからそんなことはあり得ないのだが、知らない生徒は必ず一度は驚いた。
瑞希が同性であることを知っても、どうしても彼らには瑞希が自分たちと同じ生き物であることを納得しかねるのだった。
瑞希が他者と交わろうとしないのも、その神秘性に拍車をかけた。
その結果、ある者は秘かに憧れ、ある者は反感を抱いた。
瑞希の方は一切無視しようとするのだが、好むと好まざるにかかわらず周りの方が放っておいてはくれない。
それは瑞希の子どもの頃から変わらない。
そのせいで瑞希は自分の容姿が嫌いだった。
災いは全てこの容姿にあるとさえ思っていた。
昼食を終えて玲生と瑞希が屋上から戻ってくると、廊下でたむろしていた瑞希と同じクラスの佐藤という少年が仲間から離れて二人の行く手をさえぎった。
「いつも二人だけで弁当食べに行って、怪しいんじゃねえの?野郎二人で何してるんだか?」
愚にもつかない挑発に、呆れて二人が受け流そうとしていると、また別の少年が割り込んできた。
玲生と同じクラスの杉森だった。
「そういうのを下衆の勘繰りというんだ。そんなことを言うお前の方が怪しいんじゃないのか?」
「なんだとお?お前の方こそ弓家のかたを持っておかしいぞ。」
男子校のことゆえ、あわやつかみ合いの喧嘩になるというところで玲生が止めに入った。
「二人ともつまらないことで熱くなるなよ。そんなに俺達と弁当が食いたいなら、今度みんなで一緒に食べればいいじゃないか。天気のいい日に屋上で弁当食べるのは気持ちがいいぞ。」
とぼけた明るさで二人の手を引き離す。
「そんなんじゃねえよ!」
玲生に捕まれた腕をふりほどこうとした佐藤の顔色が変わった。
捕まれた腕はびくともしなかった。
佐藤がようやくあきらめて力を抜くと、玲生はにっこり笑ってその手を離した。
「別に無理にとは言わないよ。明日天気が良かったら屋上で弁当を食べる。参加希望者は現地集合というわけだ。以上、解散。さあ、授業が始まるぞ。」
玲生は人垣を作って集まっていた生徒達を教室へ追い返し、またたく間にその場を治めてしまった。
そして、事実その翌日の昼休みは何故か大勢の生徒で屋上が賑わうことになる。
玲生と瑞希、そして例の二人の姿も屋上にあった。
瑞希は不思議でしようがない。
玲生はどうやってこういうことを可能にしてしまうのか。
人と話すことが苦手な自分ですら、いつの間にか名前も知らない連中と弁当を食べる羽目になっている。
しかも会話することに苦痛を感じない。
瑞希はその理由に気がついた。
会話の中で必ず玲生が瑞希と他の少年の間に入っている。
意図的にやっているわけではないようなのに、自然に人と人を結びつけてしまう。
そんなところが玲生にはあった。
弓道部での玲生もそうだ。
瑞希は自分にないものを玲生の中に見つけて羨望した。
今まで馬鹿馬鹿しい問題を避けるために人とのつき合いを拒んできた。
ひとりでいることが強さであると錯覚もしていた。
自分の頑なな態度が他でもない自分という人間の成長を妨げていたことにふと気づく。
瑞希の中で何かが変わり始めようとしていた。
瑞希は暗い闇の中を逃げていた。
真っ暗で何処をどう走っているのか方向もわからない。
闇雲に走って辿り着いたのは崩れかけた煉瓦の壁。
頼りない壁を背にして息をつく。
走り疲れた足はがくがくと震えている。
息は乱れ、心臓は破裂しそうなくらい鼓動している。
早く逃げないと………がやってくる。
瑞希を押しつぶし、呑み込んでしまう。
ほら、もうそこまで来ている。
冷たい汗が背中をつたう。
走ったばかりなのに身体が凍える。
瑞希は恐怖に押しつぶされそうになっていた。
(瑞希)
誰かに呼ばれて顔をあげると暗闇の中に手招きする白い手だけが浮かび上がって見えた。
(瑞希)
聞き覚えのある声なのに誰なのかは思い出せない。
その声は間近に迫る恐怖を忘れさせるほどに暖かい。
優しくさし招く手のままに瑞希は疲れた身体を引きずってついていった。
どれほど歩いても導く人との距離は縮まることがない。
姿は見えず、手ばかりが瑞希を招く。
蝶が舞うように誘う手を追いかけるうち、瑞希はいつしか明るい光の中に立っていた。
目を開けていられないくらいの光の洪水。
瑞希を導いてきた手はまばゆい光の中に溶け込んだ。
光に慣れてきた目で後ろを振り返る。
瑞希を押しつぶそうとしていた闇は遥か遠くになっていた。
毎日のように同じ夢を見る。
何かわからない巨大な闇に追われる夢。
いつも暗闇の中で恐怖に震えている。
力つきるまで逃げても逃れることができずに、闇に押しつぶされていく悪夢。
夢とも現実ともつかぬ悲鳴をあげて目覚めた後には、身体の震えを止めようと両手で自分の身体を抱くのが常だった。
けれど今日の夢はいつもと少し違っていた。
誰かに呼ばれて救われた。
瑞希を呼ぶ優しい声。
確かに夢の中で。
現実には誰の声も聞こえるはずはない。
瑞希の悲鳴が外に洩れる心配がないのと同じように。
瑞希の部屋はもともとはオーディオ・ルームだったのだそうだから。
その時、目覚ましのベルが起きる時刻を告げる。
瑞希はいつになく爽快な気分でベッドを降りた。
身支度をして階下に降りていく。
台所には既に味噌汁の香りが漂っていた。
家事は何でも手伝っている瑞希だが、料理だけは別だ。
手伝った初日に指を切り落としかけて以来、包丁には触らせてもらえない。
そのかわり配膳だけは断固として瑞希が受け持っている。
徳衛は座って新聞を読み、玲生は二人分の弁当を作り終わっている。
すっかり慣れたこの朝の光景が瑞希は好きだった。
「おはようございます。」
瑞希が朝の挨拶をしながらダイニング・ルームに入る。
「おはよう。」
徳衛が新聞から顔をあげて返事をする。
「おはよう、瑞希。」
玲生が台所からカウンターごしに笑顔を覗かせる。
その声に瑞希は驚いた。
それは紛れもなく、夢の中の瑞希を呼ぶ声だったので。
「どうかした?」
不思議な顔をしている瑞希に玲生が問いかける。
「いや、なんでもない。なんでも…」
玲生が用意する朝食をテーブルに運びながらも、自然に目が玲生の手にいってしまう。
瑞希よりひとまわり大きな手。
けれど無骨な感じはしない。
ほっそりと長い指が優雅に動く。
「本当に大丈夫?なんか、ぼうっとしてるけど。」
玲生が心配そうに瑞希の顔をのぞき込む。
「風邪でもひいたかね?」
徳衛も新聞をおいて瑞希の額に手をやる。
「本当に大丈夫です。ちょっと昨日夜更かししたせいです。」
慌てて瑞希は朝食の席につく。
徳衛と玲生は瑞希が具合が悪いなどと言おうものなら、二人がかりで大騒ぎをするのが目に見えていた。
そうして、いつものように朝食をとり、洗い物をしてから玲生と瑞希は登校する。
「瑞希、弁当忘れるなよ。」
「おじいさん、行ってきます。」
慌ただしく家を出る頃には、瑞希は夢のことなど綺麗に忘れていた。
二学期になってからは玲生が瑞希を誘って、昼食は一緒にとるようになった。
天気の良い日には校舎の裏の林や屋上で、雨の日はこっそり弓道場に忍び込んだりもする。
わざわざ弁当を食べるために教室を出てくるのは面倒のようでも、瑞希がそれを厭う様子はない。
むしろすすんで教室を後にして来るようだ。
今日も射場の軒から勢いよく滴り落ちる雨を見ながら、風流に弁当を広げている。
入り口には鍵がかかっているので、他の部員が昼休みに弓道場に来ることはない。
玲生と瑞希は矢道横の垣根の隙間から潜り込み、板戸を外して中に入っていた。
場所が弓道場とあって話題は自然と弓道のことになる。
瑞希は入部をすすめた徳衛の手前、家では決して弓道部の話はしない。
しかし、不満は大いにあるらしく、しばしば玲生がその聞き役になっている。
先程から瑞希は散々だった夏休みの合宿の時のことを話している。
玲生は差し出口は挟まずに頷きながら聞いている。
ちゃっかり持ってきた魔法瓶のほうじ茶をカップに注いで瑞希に差し出す。
その手がわずかに震えている。
瑞希はそんな玲生を横目で見ながら言った。
「お前、今、笑いたいのを必死で堪こらえてるだろ?俺が酷いめにあってるのがそんなに嬉しいか?」
「おいおい、笑ってなんかいないだろ?瑞希に同情してるよ。」
「嘘つけ!手が震えていたぞ。」
瑞希が玲生にふざけて殴りかかる。
玲生がその拳を掌で受け止める。
ぱちんと軽快な音がはじける。
玲生も瑞希も腹をかかえて笑っていた。
瑞希は夏休みの間、海外にいる親のところへは行かずに玲生の家で過ごした。
多くの時間を一緒に過ごした二人の距離は確実に近いものになっていた。
「その笑顔、他の奴にも見せてやればいいのに。もったいないよ。」
玲生は急にまじめな顔になって言った。
瑞希の顔から笑顔が消える。
「弓道部の奴だって、瑞希のクラスの奴だってみんな誤解してる。もっと他の奴にも本当の瑞希を見せてやれよ。」
玲生が真剣に瑞希の目を見つめる。
玲生の瞳は瑞希の明るい色の瞳と違って、吸い込まれそうな漆黒だった。
その瞳に瑞希の姿が映っている。
瑞希が何か言おうと口を開きかけたそのとき、稲妻が空を引き裂いた。
遅れて夏の終わりを告げる雷が大気を振動させる。
瑞希は瞬きもせずに、空を引き裂く稲妻を見つめている。
その身体は小刻みに震えていた。
「瑞希?」
瑞希はぎゅっと目をつぶり、襟元を抑えている。
「誰にもわかってもらえなくったっていい。俺、稲妻きらいなんだ。教室に戻るよ。」
瑞希はやっとの思いで掠れた声を絞り出すと、雨の中を傘もささずに飛び出していった。
後に残された玲生は、何が何やらわからずに立ち尽くしていた。
稲妻が嫌いというだけでは説明のつかないものが今の瑞希にはあった。
何もわからなくても、自分が思い上がっていたことにだけは気がついた。
ほんの少し瑞希と親しくなれたのが嬉しくて、瑞希を理解したつもりでいた。
自分だけが瑞希の理解者であるような優越感を感じていた。
玲生は自分の思い上がりを恥じていた。
学校が終わると玲生は近くの商店街で夕食の買い物をして帰る。
家に着くとまず洗濯物を取り込み、掃除をする。そして、夕食の仕度をする。
母と祖母が他界してからは、玲生が家事を受け持ってきた。
包丁さばきも堂に入っている。
『男子厨房に入らず』で育った祖父はまるで助け手にはならない。
そのくせ文句だけは人一倍多い。
幸いにして今日はそのうるさ型が老人会の月見の宴で出かけている。
このときとばかりに若者向けの献立にする。
味見をしながら、そろそろ瑞希も帰ってくる頃合と思っているところに電話が鳴った。
「はい、弓家です。…何だって?」
受話器を置くと玲生は、戸締まりもそこそこに家を飛び出していた。
瑞希が弓道部の上級生に連れていかれたという。
電話の主は場所だけを知らせると名前も告げずに電話を切った。
複数の上級生を相手にしても遅れをとる瑞希ではないが、言いようのない不安を覚えて、玲生は告げられた場所へ急いだ。
上水沿いの木立に囲まれた公園は夜の七時ともなれば、訪れる人などいない。
都心の公園でもあれば、そぞろ歩く恋人達くらいはいようが、都下の、まして駅から離れたこの辺りでは人っ子一人見あたらない。
玲生は薄暗い街灯を頼りに瑞希を探した。
いくら闇を見透かしてもそれらしき人影は見あたらない。
不安に胃が締め付けられる。
すれ違いで瑞希が家に帰っていてくれればと願うが、すぐに期待はずれであったことを知る。
玲生の目に普段はテニスの壁打ちに使われている板塀がうつった。
嫌な予感がして裏にまわる。
街灯の明かりから塀が作り出す暗がりの中に瑞希は腹を抱えるようにして横たわっていた。
「瑞希…。」
玲生は壊れ物を扱うように瑞希を助け起こした。
ハンカチで血を拭ってやろうとしても、乾いた血は容易に落ちない。
「いっつ…ん…玲生、どうしてここに?」
触れられた痛みに瑞希が目を開ける。
「誰だか知らないけど、家に電話してきたんだよ。瑞希が弓道部の先輩に連れていかれたって。」
「いったい誰だ、余計なことを。」
痛みに顔をしかめながら瑞希は呟く。
「余計じゃないよ。電話してくれてよかったさ。だけど、らしくないじゃないか。こんなにやられる瑞希じゃないだろ?」
玲生は瑞希の髪についた泥をはらってやる。
「あんまり馬鹿馬鹿しいんで相手をする気にもならなかったんだ。だけど、前から言いたかったこと思いきり言ってやったら、怒るわ、怒るわ…ボコボコに…やられたよ。」
瑞希はそれだけ言うと、また、気を失ってしまった。
玲生が名前を呼んでも目を開けない。
玲生は言いようのない怒りを感じていた。
瑞希にふるわれた暴力に対して。
瑞希に暴力をふるった者達に対して。
玲生は瑞希を背負うと、人通りの少ない道を選んで家に帰った。
祖父はまだ帰っていなかった。
瑞希は一度は目を覚まし、自分で衣服を着替えたものの、傷の手当が済むとまた眠ってしまった。
幸いにして傷は大したことはなかった。
さすがに急所は避けて殴られたらしい。
それでも今は腹を庇うように丸くなって寝息をたてている。
玲生は瑞希の額にかかる髪を掻き上げてやった。
顔はさほど殴られてはいない。
唯一切れた唇が痛々しい。
先程の目の眩むような怒りは既に収まっていた。
ただ、瑞希を守りたいと思った。
もう一度、瑞希の静かな寝息を確かめると、玲生はそっと部屋を後にした。
玲生は瑞希の部屋を出るとまっすぐに弓道場へ向かった。
暗い弓道場に灯りもつけずに入る。
灯りをつけなくても弓道場の中のことは隅々まで知っていた。
弓立に立てかけられた一張の弓を手に取る。
射場の中央に正座するとその弓の感触を懐かしむ。
それは祖父が玲生のために特別に注文して作ってくれたものだ。
しかし、ここ三年ほどは弓巻を巻いたままだった。
時折、手入れをすることはあってもその弓が弦音を発することはなかった。
それでも玲生は弓をひくことが好きだった。
精神修養のために弓道を選んだ瑞希よりも、むしろ純粋に弓をひくことが好きだった。
玲生にとって弓矢を手にすることは呼吸をするくらいに自然なことだった。
生まれたときから、弦音はいつも玲生の耳に響いていたのだから。
玲生の家は代々尾張藩の弓術師範をしていた家柄だったという。
それが曾祖父の代にこの地へ移ってきた。
曾祖父は一高・東大など幾多の学校の弓術師範をしており、祖父は今でこそ弓を手にする事も、人に弓道を教える事も止めてしまったが、以前は教鞭をとる傍ら、学校でも自宅でも弓道を指導していた。
しかし、弓道は現代教育の必須科目ではなく、弓矢の家が生業となる時代ではなかった。
そのため、玲生の父は祖父の跡を継ごうとはせずに貿易商となった。
ささやかな零細企業から始まり、事業を拡げることに熱意を傾けた。
それは父の秘書をしていた母も同じで、父の夢を実現することが母の喜びであった。
だからといって玲生が冷たい家庭で育ったというわけではない。
両親は忙しいなりに愛情を注いでくれたし、玲生も仕事の夢を楽しそうに語る父母が好きだった。
しかし、実際に玲生の世話をしてくれたのは、やはり祖父母のようなものだった。
特に祖父の徳衛は弓に興味を示す玲生が可愛くて仕方がなかった。
まだ歩けないうちから弓道場の片隅で、玲生は弓をおもちゃ代わりに育った。
弓がひけるようになると、祖父は早速、子供用の弓と矢をあつらえてくれた。
玲生の父が弓道にまるで興味を示さなかった分、祖父は喜んで幼い玲生に弓道を教えた。
玲生は成長するにつれて益々熱心になり、毎日、弓道の稽古に明け暮れた。
三年前に交通事故で母と祖母を亡くす日までは。
その日は弓道の昇段審査の日だった。
弓道連盟の役員をしていた祖父は一足先に会場へ行っており、玲生は母の運転する車で後から会場へ行くことになっていた。
久しぶりの休日を息子と過ごそうという母と玲生達の昼食を山のように作った祖母とともに。
そのまま過ぎればその日は家族の幸せな一日になるはずだった。
しかし、飲酒運転の暴走車がその幸せを粉々にした。
速度の遅いトラックを追い越そうと反対車線に飛び出してきた対向車との正面衝突事故だった。
大きな車体の陰から物凄い加速で飛び出してきた車を母はよけることができなかった。
祖母は即死、母も病院に運ばれてすぐに息をひきとり、玲生だけが重傷で一命を取り留めた。
事故から何日もたって面会謝絶の札がはずされる頃、玲生は母と祖母の死を知らされた。
愛する家族を失った悲しみは明るかった玲生の家を一変させてしまった。
玲生と祖父の喪失感も大きなものだったが、人生と仕事のパートナーである母を同時に失った父の落胆はとりわけ大きかった。
玲生の退院を待ちきれないようにして、父は仕事に復帰した。
その仕事ぶりは忙しさで悲しみを忘れようとするかのようだった。
世界中を飛びまわるように仕事をする父は家にもほとんど帰らなくなった。
そんな父にかわり、祖父は弓道を教えることを止めて、玲生の世話をしてくれた。
股関節、膝関節周辺の複合骨折と脱臼はリハビリに一年近くを要した。
生来の意志の強さと成長期途中ということもあって玲生はみるみる快方へと向かったが、母と祖母を失った心の傷は容易に治療できるものではなかった。
もし、あの日車に乗らなければ。
もし、昇段審査を受けなければ。
もし、弓道をやっていなければ。
もし、こうだったらという無意味な後悔が無数に玲生と祖父の心を苛んだ。
そんなことを悔やんだところで、起こってしまった事実は変えられないことは祖父も玲生も充分わかっていた。
心の傷は消えることはなくても、時がたつにつれ癒されていくことも。
それでも玲生と祖父が弓矢を手にしなかったのは、父の心を思いやってのことだった。
もともと弓道が好きでなかった父は、妻と母を亡くした悲しみをそのまま弓道への憎悪という形に変えたので。
「玲生、灯りもつけずにどうした?瑞希君は今日は稽古せんのか?」
老人会の集まりから帰ってきた徳衛が照明をつけながらたずねる。
母屋に玲生がいないので弓道場に来たらしい。
しかし、瑞希の姿が見えないのを不思議に思っている。
「瑞希は今日は稽古しないと思う。」
玲生は瑞希のことは何も言わずに祖父に向き合った。
「それより、俺、もう一度弓を始めようと思う。」
徳衛は困ったような、嬉しいようなどちらとも言えない顔をした。
「お前の父親が何と言うかのう。」
「父さんが何と言っても関係ないよ。やると決めたのは俺なんだから。」
玲生の返事には少しの迷いもなかった。
そんな玲生を徳衛は頼もしげに見る。
「瑞希君か?」
「うん、瑞希が弓道するのを見てたら俺もまたやりたくなった。俺も弓道部に入ろうと思う。じいさんはもう教えないんだろう?」
徳衛はゆっくりと頷いた。
「そうか、お前の好きにするがいい。お前は儂と違って、まだ若いのだから。」
「じいさんだっていつもは自分を年寄り扱いするなって言うくせに。」
「ばかもん。人の揚げ足を取るな。」
徳衛は玲生の頭を小さな子供にするようにくしゃくしゃと撫でた。
翌朝、玲生はいつもよりも早く起きて弓道場に入った。
雨戸を開け、射場を掃き清め、雑巾掛けをする。
神棚の榊の水を取り替え、水とご飯を供える。
蝋燭に灯りをともして柏手を打つ。
盛り上げた砂に水をまき、あずちを整える。
ついでに祖父が矢道に植えた植木に水をやり、的をつける。
すべて準備が終わると玲生は軽く身体をほぐした。
全身が映る鏡の前で素引きをする。
そこにはしばらくぶりに見る袴姿の自分がいた。
三年ぶりにひく弓はわずかに重い感じがする。
使われていなかった筋肉の抵抗を感じる。
玲生は静かな呼吸で丹田に気を込めた。
久しぶりに感じる充足感が玲生の全身を満たした。
身体が温まるとゆがけをはめて、巻藁矢を手に取った。
胴造りをして巻藁に向かう。
少し硬い弦音とともに矢が巻藁に突き刺さる。
繰り返し繰り返し、矢が巻藁の中央に集中するまで、玲生は巻藁稽古を続けた。
ようやく納得のいく弦音が発せられると、玲生は的前に立った。
「玲生!」
名前を呼ばれてふりかえると、弓道場の入口に瑞希が立っていた。
急いで来たらしく、ワイシャツのボタンが全部とまっていない。
「おはよう、瑞希。身体の具合は大丈夫かい?顔の傷はほとんど腫れがひいたみたいだけど。」
「そんなことより!何で玲生が弓ひいてるんだよ?弓道はやってないって言ってたのに?俺には弓道部に入らせといて、玲生は家で稽古していたのか?」
瑞希は物凄い勢いで玲生に詰め寄った。
「俺が弓道部でどんなに…。」
あまりにも勢い込んだために、瑞希は言葉が続かなかった。
玲生は瑞希を落ち着かせようと肩をつかむ。
瑞希は怒ってその手をふりはらおうとする。
「違うよ、瑞希。俺は嘘を言ったわけじゃない。本当にやってなかったんだ。前に瑞希が聞いただろう?どうしてじいさんと俺が弓をやめたのかって。」
「あ…ああ」
思いだして瑞希の動きがとまる。
「そう、三年前交通事故で母と祖母が亡くなるまで、俺とじいさんは弓をやっていたんだ。」
玲生は瑞希に語り始めた。
玲生と祖父がどんなに弓道を好きだったか。
その二人がどうして弓道をやめたのか。
交通事故のこと、父親のこと、そのときから切らなかった自分の髪のこと。
過去の出来事を淡々と語る玲生を瑞希がさえぎった。
「もういい。もうわかったから。ひどいこと聞いてごめん。俺、玲生に辛いこと思い出させた。」
瑞希の声はふるえている。
いつもの瑞希らしくない弱々しげな態度に玲生は慌てる。
「そんなに気にしなくていいよ。瑞希が無理に過去を思い出させたわけじゃない。俺が瑞希に知ってもらいたかったんだ。」
「でも、誰にだって触れられたくない過去はあるのに軽率だった。本当にごめん。」
玲生は瑞希の大げさすぎるとも思える謝罪にふと思いあたる。
触れられたくない過去があるのは瑞希の方なのではないだろうか。
玲生はまたひとつ増えた瑞希に対する思いを胸の奥に大切にしまった。
「本当に気にしなくていい。俺の中ではもう、とっくに整理のついていたことなんだ。ただ、何となくきっかけがなかっただけのことで。瑞希、俺も弓道部入るよ。」
「それって、まさか昨日、俺が弓道部の先輩達に殴られたからじゃないだろうな。それだったら断るぞ。俺は自分の面倒くらい自分でみられる。」
気色ばんだ瑞希に対して玲生は眉一つ動かさない。
「違うよ。たまたま時が重なっただけで、俺は遅かれ早かれ、弓を始めるはずだったんだ。瑞希が熱心に弓をひいているのを見ていたら、俺ももう一度やりたくなったというのは本当だけどね。今日、弓道部に行くよ。」
玲生の言葉に瑞希の顔がぱっと明るくなる。
そのとき、母屋から徳衛の二人を呼ぶ声が聞こえた。
「さあ、じいさんが呼んでるから朝食にしよう。もう支度はできてるんだ。俺は着替えてから行くから先に行ってて。」
「うん、わかった。」
玲生は瑞希の後ろ姿をじっと見つめる。
自分がいつかは弓道に戻ることはわかっていた。
しかし、瑞希を守るために弓道部に入る。
それもまた玲生の偽りようのない本心だった。
少年は一人で無心に弓をひいている。
そこは他者の介入を許さない彼だけの空間だった。
玲生(あきらお)は少年の邪魔をしないように控えに正座し、その場の空気を乱すことなく少年の行射を見つめつづける。
やがて一手の行射を終えた少年が弓を置くためにふりかえった。
その見る者を魅了せずにはいられない印象。
彫りの深い顔だちと明るい色の髪は異国の人形を思わせる。
滑らかな肌が白磁のようだ。
少女と見紛うばかりの美しさとはこういうことを言うのだろうと玲生は漠然と感じていた。
「君は?」
誰何の声が玲生を現実に引き戻す。
少年は弓を立てかけ、ゆがけをはずすと玲生に面と向かった。
きちんと糊のきいた白い稽古着と折り目の整った袴姿が清々しい。
それに対して玲生は、洗い晒しのジーンズにデニムのシャツ、肩までかかる長い髪。
およそ弓道場には似つかわしくない格好だった。
少年はいぶかしいものでも見るように玲生の方を見た。
しかし、当の玲生はそんなことはまるで気にしていない。
人懐こい黒い瞳がにこやかに笑いかける。
「はじめまして、俺は玲生、弓家(ゆげ)玲生。」
少年はそれを聞いて、思い当たったようにうなづく。
「先生のお孫さんですね。僕は今日からこちらにお世話になります加賀瑞希といいます。どうぞよろしくお願いします。」
少年は礼儀正しく挨拶をした。
しかし、その表情に微笑みはない。
「こちらこそ、よろしく、瑞希。」
玲生の方はといえば、全く屈託がなかった。
まるで旧知の友人に話しかけるような調子で気軽に右手を差し出す。
いきなり『瑞希』と名指しで呼ばれた少年は無表情のまま、差し出された手を凝視している。
玲生は苦笑しながら、拒絶され行き場を失った右手で長い艶やかな黒髪をかき上げた。
「ごめん、会っていきなり名前で呼ぶのは失礼だったかな?」
玲生は素直に謝ったが、少年の返した言葉は冷ややかな響きのものだった。
「いえ、ただ名前で呼ばれるのは慣れていないもので。」
「そう、でもこれからは同じ屋根の下で暮らすわけだし、同じ学年だそうだから、名前で呼び合ってもいいんじゃないかな。」
「いえ、僕はお世話になる身ですし、会ったばかりでそういうわけにはいきません。」
少年はあくまでも頑なな態度をくずそうとはしなかった。
そんな少年に対して、玲生は何かしら違和感を覚えた。
目の前にいる存在は無機質で現実味を欠いた感じがした。
先程きいた弦音はこんなふうだったろうか。
何かもっと激しい豊かなもの。
およそ冷静とか、おとなしいといった印象とは無縁のものだったはず。
「会ったばかりがいけないなら、どれくらいたったらいいんだい?」
「そういうものは月日で決められるものではないと思います。」
「月日でないなら、君が名前を呼んでもいいと許可をくれるまで、俺は待たなくちゃいけないのかい?」
「許可するとかじゃなく、親しくなったら自然にそうなるものだろっ!」
玲生の執拗な問いかけが煩わしくなったのか、少年は思わず怒鳴っていた。
はっとしたように赤面して口元をおさえる。
人形のような表情から人間のそれに変わる。
玲生はほっと安心したように微笑む。
「いつか名前で呼び合う日が来るなら、俺は今日からがいい。君はどうしても名前で呼ばれるのは嫌かい?」
「別に呼び方なんかどうでも…いいです。」
「ごめん、別に君を怒らせるつもりはなかったんだ。ただ、君の様子があまりにも弦音と違っていたから。なんか無理してるのかな…と。」
少年は驚いたように玲生を見る。
「弦音?あなたも弓をひくんですか?」
意外だと言わんばかりにたずねられ、玲生は苦笑した。
「これでも以前はやってたよ。今はやめてるけど。」
「どうしてですか?こんなに立派な弓道場があるのに。」
何気ない問いに、玲生の表情がわずかに曇る。
「三年前にちょっと…ね。じいさんも俺も弓をひくのやめたんだ。」
玲生は穏やかに言葉尻を濁したが、そこには人に触れられたくない何かがあった。
少年ははっとして口をつぐむ。
「すみません。矢取りに行きます。」
的場に向かう少年の後を玲生が追う。
「じいさんはもう部屋を案内したかな?」
「いえ、まだですけど。」
「それなら、稽古はそろそろ終わりにしないかい?これからはいつでも好きなときに稽古できるんだから。」
玲生は気まずさを拭いさるように明るく言うと的をかたづけはじめた。
少年は無言でそれを手伝った。
玲生の家の弓道場は外からの入口とは別に渡り廊下で母屋とつながっている。
弓道場から戻ってきた二人に気づいて、玲生の祖父が居間から顔をのぞかせる。
「何だ、玲生。おまえ帰っておったのか。あれほど早く帰れと言うておったのに、遅くなりおって。瑞希くんはとっくに来ておるぞ。」
「知ってるよ。こうやって弓道場から一緒に来てるんだから。」
叱責する祖父の徳衛(とくえ)には構わずに、玲生は小声で瑞希に話しかける。
「うちのじいさん、顔つきは厳いかめしいけど、中身は全然違うからね。瑞希が来たのが嬉しくて仕方がないんだ。」
「僕が来たのが…嬉しい?」
瑞希はその言葉の意味を推し量るように呟く。
「そう、俺とじいさんにこの家は広すぎるし、いつも俺みたいに生意気なのじゃなくて、もっと素直で可愛い孫が欲しかったって言ってたから。」
玲生の言葉に瑞希は無愛想にこたえる。
「僕は別に可愛くなんかありません。」
玲生は困ったように溜息をつく。
「そういう意味で言ったわけじゃないんだけど、気を悪くしたのなら謝るよ。」
「何をこそこそ話しておるか。瑞希くん、そいつには構わず、こちらにおいで。」
二人がなかなか来ないのに焦れて、徳衛が瑞希を呼ぶ。
二人が居間に入り、瑞希が座ると徳衛はたずねた。
「吉岡範士はお変わりはないかね?」
徳衛の問いに瑞希の顔に陰がさす。
「僕がこちらに伺う少し前にお身体の具合が悪くて入院されたのですが、ご本人は心配することはないとおっしゃって、いたってお元気でした。ですから、直接ご挨拶することができなくて申し訳ないと、先生によろしくとおっしゃっていました。」
「そうかね。しかし、昔から丈夫な人だったからの。儂が風邪をひいたときなど、よく軟弱者呼ばわりされたものさ。」
徳衛は心配そうに肩を落としている瑞希を元気づけるかのように明るく言った。
「ところで瑞希君、儂のことは先生ではなく、おじいさんと呼んでくれんかね。弓道を指南するわけではなし、今日からは同じ屋根の下に住む家族みたいなものだからの。先生と呼ばれてはこそばゆくていかん。」
徳衛はにこにこと笑っている。
その様子は言い方の違いはあるにしても、先程の玲生とそっくりだった。
瑞希は向かいに座っている二人を見比べて、懸命に笑いを堪こらえていた。
徳衛は瑞希の様子に首を傾げているが、玲生は苦虫を噛み潰したような顔になる。
心外とばかりに、祖父にむかって憎まれ口をきく。
「おじいさんなんて可愛い代物かよ。爺で十分だ。」
玲生の言葉に徳衛が言い返す。
「儂が爺ならおまえは小僧だな。」
玲生は祖父の言葉は聞こえないふりをして瑞希を見る。
笑いを堪える表情が好ましかった。
こんなにいい表情を持っているのにと、玲生は感嘆する。
しかし、瑞希は気を取り直すと、再び堅苦しい態度に戻ってしまう。
「失礼しました。お二人があまりに似ておられるのでつい。」
「構わんよ。この不出来の孫が儂に似ているとは思わんがね。」
徳衛は茶目っ気たっぷりに片目をつぶってみせた後、まじめな顔になって話題を変えた。
「さて、家の案内は後で玲生に任せるとして、弓道の稽古のことだが。儂は久しく弓道を教えておらんので瑞希君には高校の弓道部に入ってもらう事になるよ。家の弓道場はいつでも好きなときに使ってもらって構わんがね。」
徳衛の言葉に瑞希の眉がぴくりと動く。
「お言葉ですが、僕はクラブ活動で弓道をするつもりはありません。先生にご教授いただけなくても、こちらの弓道場で一人で稽古します。」
徳衛は瑞希の言葉に機嫌を損ねるでもなく微笑した。
「確かに瑞希君には学校弓道は合わないかもしれないが、『射即人生』ともいう。人と息を合わせる事も学ばねばならんよ。それに一人で稽古をするのはよろしくない。せっかく吉岡範士のご指導で身についた綺麗な型が崩れてしまうよ。」
徳衛の話し方は優しいものだったが、瑞希に反論する事は許さなかった。
「さあ、玲生、瑞希君を部屋に案内してあげなさい。あ、それから瑞希君、儂のことはじいさんだよ。じいさん。」
祖父に言われて先に立った玲生の後に、瑞希はまだ納得しかねる顔つきでついていった。
「ここが台所で、こっちはじいさんの部屋。階段の横が洗面所と浴室。トイレは階段の向こう。瑞希の部屋は二階だよ。」
玲生は家の中を案内しながら階段を二階へと向かう。
瑞希は黙ったまま後についていく。
「突き当たりが俺の部屋で、あそこも洗面所。手前の洋間が瑞希の部屋。置いてある家具は自由に使ってもらって構わない。荷物は部屋に入れてあるけど、荷解き手伝おうか?」
瑞希は押し黙ったまま返事もしない。
玲生は苦笑しながら瑞希にたずねた。
「弓道部に入るのがそんなに納得いかない?」
「僕は段をとったり、競技会にでるために弓道を始めたわけじゃありませんから。」
瑞希はフローリングの床を見つめている。
端正な横顔に長い睫毛が影をおとしていた。
「それじゃあ、どうして弓道を始めたんだい?」
瑞希は玲生に冷たい視線を向けた。
「そんなことを君に言う必要がありますか?」
玲生は軽く肩をすくめてみせる。
何気なく視線を向けた窓の外は陽が傾きつつあった。
「瑞希に無理強いをするつもりはないんだけど、じいさんの言うことも正しいような気がする。でも、決めるのは瑞希だから。じいさんも瑞希がどうしても嫌だって言えば無理にとは言わないよ。それじゃ、俺は夕飯の仕度するから。」
「僕、何か手伝いを…。」
言いかけた瑞希を制して玲生が言う。
「今日はいいよ。夕飯できたら呼ぶから、それまで荷物を片付けるといい。」
そう言いながら玲生は階下へ降りていった。
玲生の家は東京郊外の住宅地にある。
東京とはいっても道端で野菜を売っているようなのどかなところだ。
近くを玉川上水が流れ、それに沿って自然遊歩道になっている樹林が続く。
野鳥が飛び交い、豊かな自然が四季折々に目を楽しませてくれる。
高校の入学式が終わる頃、上水の桜は染井吉野から八重桜へと移り変わり、遊歩道の樹木は若葉の薄い緑に覆われる。
清流には何年か前に放流された鯉が金鱗・銀鱗をきらめかせ、橋を渡る人の目を喜ばせている。
玲生達の通う高校は家から歩いて二十分、その風光明媚な上水の辺に位置する大学付属の私立の男子校である。
入学当初、玲生が家事を理由に何も部活をしないと知ると、瑞希も弓道部に入部しないと言い出した。
しかし、結局は徳衛に説得されて弓道部に落ち着いた。
瑞希は徳衛に対して従順だった。
弓道の師として尊敬するのは当然としても、それだけが理由ではないようだ。
徳衛は最初から瑞希を実の孫の玲生と同じように扱っている。
飄々とした人柄が瑞希の心を和らげるのか、瑞希の方も徳衛に孫のように扱われることを嫌がる様子はない。
むしろ孫の玲生が回避している囲碁の相手や、盆栽の話にまで根気よく付き合っている。
それだけでなく、いつの間にか徳衛のことを『先生』ではなく、『おじいさん』と呼ぶまでになっていた。
玲生の方は相変わらず『世話になっている家の孫息子』という存在でしかなかったが。
それでも瑞希は玲生の家には馴染んでいるほうだった。
学校での瑞希はそうはいかなかった。
クラスの違う玲生には詳しく知りようがないが、耳に入ってくる噂は芳しいものではない。
入学してから日が経つにつれ、瑞希は孤立していくようだった。
教室でも校庭でも、玲生は一人でいる瑞希の姿をよく見かけた。
特に弓道部での他の部員との反目は激しいらしいが、瑞希が学校や弓道部の練習をさぼるようなことは一度もなかった。
一人でいることを気にする様子もない。
瑞希はむしろ孤独でいることを望んでいるようだった。
今日も夕食後、瑞希は一人で家の弓道場で稽古をしている。
夜風が花の香りを運んでくる気持ちの良い春の夜だった。
しかし、先程から瑞希の弦音は冴えない。甲矢(はや)が鈍い音をたててあずちに刺さる。
「退く胴、上がり筈、右肩に力が入りすぎだよ。」
射位で残心を終えて立っている瑞希の背中に向かって玲生は言った。
「な…」
振り向こうとした瑞希を制して玲生は続ける。
「行射を途中で乱すな。何も考えずに乙矢をつがえろ。」
(乱しているのは貴様じゃないか。)
瑞希は心の中では文句を言いながらも乙矢をつがえた。
足踏みから胴造りへ流れるように行う。
玲生は行射を行う瑞希に向かってのんびり話しかけた。
「今日は月が綺麗だ。花の香りのする空気もいい。弓をひくにはいい季節だな。」
(人が行射を行っているときに何を暢気なことを。)
瑞希は反感を覚えつつも、つい深呼吸してしまう。
(本当にいい香りがする。何の花かな?)
物見をかえす視野に美しい満月が映る。
自然に肩から力が抜ける。
打起しから引分け、会へ。
たん!
的の真心を乙矢が貫く。
残心を終えた瑞希が信じられないといったように玲生をふりかえる。
玲生は素知らぬ顔でゆっくりと射場の端に腰掛けながら言った。
「学校の弓道部、あまりうまくいってないようだな。この頃、瑞希の弦音がちっとも冴えない。」
瑞希は弓を弓立に立てかけると玲生の方にやってきた。ゆがけを外すと玲生の隣に腰掛ける。
「うまくいくわけがない。最悪だ。」
玲生は驚いて瑞希を見る。
いつもの瑞希なら必要な返事だけして無視するところだ。
「弓道部は体育会系の奴ばかりだ。特に二年の雨宮という三つ子の兄弟は最悪だ。先輩に対する礼儀はうるさく言うくせに、当たりばかり重要視して射品なんて欠片もありはしない。」
よほど弓道部では我慢をしているのか、瑞希にしては珍しく饒舌になっている。
玲生はなだめるような口調で言った。
「でも顧問の先生はじいさんの教え子だから、丁寧に指導してくれるだろ?」
「先生はね、きっちり指導してくれる。でも毎日稽古を見てくれるわけじゃない。君は学校の弓道部に入ったことがあるか?」
「いや、ない。市立の中学には弓道部なんてなかったから。」
「僕達一年はまだ巻藁練習と矢取りしかさせてもらえない。後は当たりの○×書きだけだ。型すらまともにできてない奴が二年というだけで的前に立っているというのに。それだけならまだ許せる。耐え難いのは看的で当たる度に『射』と叫ばされることだ。声を張り上げすぎて裏がえっているのなんか、聞くに耐えないぞ。」
瑞希の批判は正直で、自然に辛辣にもなる。
玲生は何といってなだめたものか、思案に暮れる。
また、弓道部での瑞希の様子が想像つくだけに、可笑しくもある。
しかし、ここで笑ってはまた瑞希を怒らせることになるので必死に堪こらえる。
「それでも毎日よく我慢して部活に出ているな。」
「おじいさんが俺に学ばせたいものがあるはずだと思うからだ。それに我慢するのも精神修養の一つだと思っている。」
瑞希はまっすぐに月を見つめた。
月の光が琥珀色の瞳に映りきらめく。
その輝きは意志の強さをあらわしていた。
綺麗な顔立ちなのに軟弱に見えないのはその眼差しのせいだ。
「稽古続けろよ。俺が矢取りするから。じいさんほど年季は入ってないけど、型の崩れくらいは見てとれるよ。それとも、俺がいたら気が散って行射できない?」
玲生は立ち上がり、瑞希に右手を差し出した。
一瞬ためらった後、瑞希は差し出された手を取り、挑むように立ち上がった。
「そんな柔な精神はしていない。お願いする。」
この日から瑞希が家の弓道場で稽古するときには玲生もつきあうようになった。
しかし、玲生自身が弓を手にすることは一度もなかった。
高校に入学して二ヶ月が過ぎようという日曜日、玲生はビルの二階にある喫茶店で時間を持て余していた。
ガラス越しに街を行き交う人々を眺めている。
おそらく今頃はこの街のどこかにいるであろうはずの人物を人混みの中に見出すことができはしないかと期待しながら。
しかし、そんな偶然は奇跡でもない限りありえないことは玲生も承知していた。
まわりの席では待ち合わせの人々が入れ替わり立ち替わり落ち合っては休日の街に消えていく。
玲生だけがその場にぽつんと取り残されていた。
(こんな所で瑞希の姿を探してる俺って馬鹿みたいだ。)
玲生は大きく溜息をついた。
玲生は瑞希ともっと親しい友人になりたいと思う。
弓道の稽古につきあっているときは、それなりに会話もする。
瑞希の言葉使いもだいぶ砕けてきた。
しかし、あくまでも弓道の話題だけに限られている。
それ以外は必要最小限の返事しか瑞希はしてくれない。
名前で呼んでくれる日など永遠に来ないような気さえする。
たかが名前の呼び方とはいえ、祖父は『おじいさん』と呼ばれているのに、自分は『弓家君』では釈然としないものがある。
しかし、嫌われているわけではないようだ。
学校での瑞希の態度を考えれば、玲生への接し方などましな方と言える。
だからといって何が変わるわけでもないのだが、考えると気が滅入ってくる。
玲生は再び外の風景に目をやった。
眼下に広がるのはありふれた渋谷の街。
もうすぐネオンの灯りが華やぎはじめる時刻だ。
いいかげん帰ろうかと立ち上がりかけたとき、玲生の注意をひくものがあった。
やや薄暗い路地で何やら柄の悪い連中が一人の少年を取り囲んでいる。
道行く人々は誰一人として注意を向けようとはしない。
かかわり合いになるのを避けて、足早に遠ざかる。
玲生はその中に探しもとめていた人物を見つけた。
瑞希が不良っぽい少年たちに何やらからまれている。
瑞希はいつもの無表情で恐れる様子もなく、まるで相手にしようとしていない。
ひときわ柄の悪そうな少年の手に遠目にもナイフとわかるものが握られた。
瑞希を脅そうというのか、その鋭利な輝きが瑞希の頬に押しあてられる。
(瑞希!)
玲生は会計をするのももどかしく店を飛び出していた。
二階の窓から見えていたあたりに大急ぎで行く。
しかし、そこで玲生が目にしたものは、まるで武道の演武のように五・六人の相手を軽くあしらっている瑞希の姿だった。
玲生は出番無しと見て、しばらく傍観を決め込んだ。
そのうち、少年達の内の二人が瑞希を後ろから抑え込んだ。
二人がかりで同時にしがみつかれては瑞希もさすがに簡単にはふりほどけない。
先程の少年がナイフを手に瑞希に近づく。
「女みたいな顔しててこずらせやがって。」
ナイフが瑞希の頬を切り裂こうとした瞬間、玲生がその手を捻りあげた。
「一人を相手にこんなもの使うなんて卑怯だぜ。ほら、ナイフを離さないと手が折れるぞ。」
玲生の声は容赦がなく冷たかった。
捻りあげた腕に力を込めると、少年は情けない悲鳴をあげてナイフを落とした。
その様子に気を取られ、瑞希を押さえつけていた二人の手が緩む。
その隙を逃さず、瑞希は二人の少年の拘束から逃れた。
自然に玲生と瑞希は背中合わせの形になる。
「誰も助けてくれなんて言ってないぞ。」
「でも、二人の方が早くかたづくと思うぞ。」
玲生と瑞希は示し合わせたわけでもないのに、ぴたりと息の合った立ち回りを見せた。
そして、玲生の言葉通り、数分後には少年達はお決まりの言葉を残して立ち去っていた。
「おぼえてろよ!」
喧嘩というには一方的すぎる妙技でそれは終わった。
瑞希は涼しい顔で買ったものらしい紙袋の埃をはらっている。
玲生は驚きを隠しもせずに瑞希に声をかけた。
「見かけによらず強いね。他の武道もやってたんだ。」
「べつにどうってことはない。ただ、『見かけによらず』というのは取り消してもらおうか。それを言うなら君の方がよっぽど見かけによらずだ。優しい顔して、やることが怖い。あいつの腕を本当に折るかと思ったよ。」
瑞希は不機嫌そうな、しかし、照れくさそうでもある複雑な表情で笑った。
「それじゃ、俺はもう帰るけど、君は?」
瑞希は既に駅に向かって歩きだしながら言った。
玲生は一瞬その背中を見つめて笑顔になる。
「俺ももう帰るところだったんだ。」
玲生は瑞希に追いつくと横に並んで歩き始めた。
気象庁が梅雨明け宣言をして晴天が続いたある日、瑞希は学校からの帰り道、本屋の店先で立ち往生していた。
空は墨を掃いたような暗い雲に覆われ、大粒の雨が道路と街路樹の埃を洗い流していく。
渇水が囁かれる夏日とあっては恵みの雨には違いないが、傘を持っていない者にとっては運が悪いとしかいいようがない。
本屋から家までは十分くらい。
濡れて帰れないことはないが、瑞希には弓と矢筒があった。
他のほとんどの弓道部員は弓矢を学校の弓具室に保管している。
しかし、瑞希は弓家の家でも稽古をするので毎日持参している。
竹製の弓と矢を濡らすわけにはいかない。
そういう意味では傘があっても何の役にもたたない。
傘をさしただけでは弓と矢筒が濡れてしまう。
学校のロッカーには弓と矢筒のレインカバーが常に置いてあるのだが、ここまで来てしまってはどうすることもできない。
瑞希は大きく溜息をつく。
(こんなことなら寄り道しないで帰ればよかった。)
瑞希の視界に公衆電話の若草色が映る。
部活をしていない玲生は既に家に帰っているはずだ。
電話で頼めば、雨具を持ってきてくれるに違いない。
けれどそれは何となく躊躇われた。
瑞希はすぐには止みそうもない雨を恨めしげに見ながら、玲生の家に下宿してからの出来事を思い返していた。
弓家の家は瑞希を家族のように迎えてくれた。
それは瑞希にとって戸惑うものだった。
徳衛は厳しくて優しい。
瑞希を孫の玲生と同じように扱ってくれる。
自分の祖父があんな人だったらどんなに良かっただろうと瑞希は思う。
そして玲生。
最初は女のように長い髪をして、胡散臭くさい奴だと思った。
馴れ馴れしい態度も軽薄だと思った。
けれど、そうでないことは玲生を知るうちにわかってきた。
単に人懐こいだけだった。
瑞希とは正反対の穏やかな性格。
勉強も運動神経も並外れている。
男として負けたくないと思う。
それと同時に憧れずにはいられない。
そうありたいと願う自分の理想を重ねて。
そして、何よりも戸惑う。
どんなに冷たく突き放しても、変わらずに示される無条件の好意に。
瑞希は再び公衆電話を見つめた。
電話をしようかと思ったそのとき、傘をさした人影が瑞希に声をかけた。
「瑞希、ここにいたのか。」
突然、名前を呼ばれた瑞希は声の主に驚いた。
たった今、電話しようかと思っていた相手が目の前にいる。
走ってきたのか、名前を呼んだ人物は息を切らして立っている。
「急に降ってきたからな、困っているだろうと思って持ってきたよ。」
玲生は弓と矢筒のレインカバーを差し出した。
瑞希は驚いて玲生を見つめる。
「どうして…俺がここにいるのがわかったんだ?」
「いや、何となく。雨が降り出したのは学校をとっくに出てるはずの時間だったから途中の何処かだろうと。」
当然とばかりに玲生は笑った。
「ほら、早く弓にカバーかけろよ。俺が矢筒の方かけるから。」
瑞希はカバーを受け取ったまま、玲生を見つめた。
玲生は既に家に帰っていたので今は私服だった。
学校では後ろに束ねている長い黒髪が、頬から肩へと綺麗な流れを形作っている。
初めて会った日に反感を覚えたジーンズ姿が、今は好ましいものに感じられた。
「ありがとう、玲生。」
礼の言葉が自然にすべりでた。
今度は玲生が驚いたように瑞希を見る。
そして、次の瞬間その顔が宝物を抱えた子供のような笑顔になる。
「どういたしまして、瑞希。」
二人は傘を並べて家路についた。
たわいない会話と笑い声が雨音の中に消えていく。
明日の朝には雨も止むだろう。
冷夏続きのこの頃では、珍しくなった暑い夏が過ぎていく。
弦音(つるね)。
その音色を言葉で言いあらわすことは難しい。
矢を放った瞬間に発する弓弦の振動音である。
その音は千差万別、弓をひく人によって音色が違う。
それは弓をひく者の技量と人格を顕現する魂の響きであるから。
玲生(あきらお)は息を切らしながら自宅の門をくぐった。
今日は早く帰るようにと言われていたのに、予定の時間はとうに過ぎている。
祖父の怒った顔が目に浮かぶようだ。
玲生が祖父の説教を覚悟しながら玄関の引き戸に手をかけたそのとき、厳かな音があたりに響きわたった。
歯切れの良い冴えた弦音。
聞き慣れた祖父の弦音とは違う。
何とも言えない心地よい響き。
玲生は家に入るのをやめると、その音に誘われるように自宅に隣接している弓道場へと足を向けた。
再び同じ弦音が玲生の鼓膜を揺さぶる。
祖父でなければ、誰が弓をひいているというのか。
思い当たる人物は一人だけ。
今日からこの家に下宿することになっている少年。
弓をひくとは聞いていたけれど、これほどのものとは思っていなかった。
繊細な中に強さを秘めた余韻の残る音色。
玲生は弦音を聴いただけで少年のひととなりすらもわかるような気がした。
行射の妨げにならないようにそっと弓道場に足を踏み入れる。
そこはいつものように厳粛な空気に満たされていた。
射位中央で一人の少年が行射を行っている。
引分けから会へ。
時間がゆっくりと流れていく。
矢道横の桜の花びらが風に舞い、弓をひく少年に纏いつく。
春の午後の柔らかな日射しが少年の身体を包み込む。
その光景は見事な日本画のように厳かな美しさを秘めていた。
ぱん!
小気味の良い音とともに矢は正鵠を射る。
残心は艶やかに咲き誇る桜の花のようだった。
その鮮やかなまでの印象は玲生の心に焼きついた。
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