正鵠 第二章 胴造り
瑞希は暗い闇の中を逃げていた。
真っ暗で何処をどう走っているのか方向もわからない。
闇雲に走って辿り着いたのは崩れかけた煉瓦の壁。
頼りない壁を背にして息をつく。
走り疲れた足はがくがくと震えている。
息は乱れ、心臓は破裂しそうなくらい鼓動している。
早く逃げないと………がやってくる。
瑞希を押しつぶし、呑み込んでしまう。
ほら、もうそこまで来ている。
冷たい汗が背中をつたう。
走ったばかりなのに身体が凍える。
瑞希は恐怖に押しつぶされそうになっていた。
(瑞希)
誰かに呼ばれて顔をあげると暗闇の中に手招きする白い手だけが浮かび上がって見えた。
(瑞希)
聞き覚えのある声なのに誰なのかは思い出せない。
その声は間近に迫る恐怖を忘れさせるほどに暖かい。
優しくさし招く手のままに瑞希は疲れた身体を引きずってついていった。
どれほど歩いても導く人との距離は縮まることがない。
姿は見えず、手ばかりが瑞希を招く。
蝶が舞うように誘う手を追いかけるうち、瑞希はいつしか明るい光の中に立っていた。
目を開けていられないくらいの光の洪水。
瑞希を導いてきた手はまばゆい光の中に溶け込んだ。
光に慣れてきた目で後ろを振り返る。
瑞希を押しつぶそうとしていた闇は遥か遠くになっていた。
毎日のように同じ夢を見る。
何かわからない巨大な闇に追われる夢。
いつも暗闇の中で恐怖に震えている。
力つきるまで逃げても逃れることができずに、闇に押しつぶされていく悪夢。
夢とも現実ともつかぬ悲鳴をあげて目覚めた後には、身体の震えを止めようと両手で自分の身体を抱くのが常だった。
けれど今日の夢はいつもと少し違っていた。
誰かに呼ばれて救われた。
瑞希を呼ぶ優しい声。
確かに夢の中で。
現実には誰の声も聞こえるはずはない。
瑞希の悲鳴が外に洩れる心配がないのと同じように。
瑞希の部屋はもともとはオーディオ・ルームだったのだそうだから。
その時、目覚ましのベルが起きる時刻を告げる。
瑞希はいつになく爽快な気分でベッドを降りた。
身支度をして階下に降りていく。
台所には既に味噌汁の香りが漂っていた。
家事は何でも手伝っている瑞希だが、料理だけは別だ。
手伝った初日に指を切り落としかけて以来、包丁には触らせてもらえない。
そのかわり配膳だけは断固として瑞希が受け持っている。
徳衛は座って新聞を読み、玲生は二人分の弁当を作り終わっている。
すっかり慣れたこの朝の光景が瑞希は好きだった。
「おはようございます。」
瑞希が朝の挨拶をしながらダイニング・ルームに入る。
「おはよう。」
徳衛が新聞から顔をあげて返事をする。
「おはよう、瑞希。」
玲生が台所からカウンターごしに笑顔を覗かせる。
その声に瑞希は驚いた。
それは紛れもなく、夢の中の瑞希を呼ぶ声だったので。
「どうかした?」
不思議な顔をしている瑞希に玲生が問いかける。
「いや、なんでもない。なんでも…」
玲生が用意する朝食をテーブルに運びながらも、自然に目が玲生の手にいってしまう。
瑞希よりひとまわり大きな手。
けれど無骨な感じはしない。
ほっそりと長い指が優雅に動く。
「本当に大丈夫?なんか、ぼうっとしてるけど。」
玲生が心配そうに瑞希の顔をのぞき込む。
「風邪でもひいたかね?」
徳衛も新聞をおいて瑞希の額に手をやる。
「本当に大丈夫です。ちょっと昨日夜更かししたせいです。」
慌てて瑞希は朝食の席につく。
徳衛と玲生は瑞希が具合が悪いなどと言おうものなら、二人がかりで大騒ぎをするのが目に見えていた。
そうして、いつものように朝食をとり、洗い物をしてから玲生と瑞希は登校する。
「瑞希、弁当忘れるなよ。」
「おじいさん、行ってきます。」
慌ただしく家を出る頃には、瑞希は夢のことなど綺麗に忘れていた。
二学期になってからは玲生が瑞希を誘って、昼食は一緒にとるようになった。
天気の良い日には校舎の裏の林や屋上で、雨の日はこっそり弓道場に忍び込んだりもする。
わざわざ弁当を食べるために教室を出てくるのは面倒のようでも、瑞希がそれを厭う様子はない。
むしろすすんで教室を後にして来るようだ。
今日も射場の軒から勢いよく滴り落ちる雨を見ながら、風流に弁当を広げている。
入り口には鍵がかかっているので、他の部員が昼休みに弓道場に来ることはない。
玲生と瑞希は矢道横の垣根の隙間から潜り込み、板戸を外して中に入っていた。
場所が弓道場とあって話題は自然と弓道のことになる。
瑞希は入部をすすめた徳衛の手前、家では決して弓道部の話はしない。
しかし、不満は大いにあるらしく、しばしば玲生がその聞き役になっている。
先程から瑞希は散々だった夏休みの合宿の時のことを話している。
玲生は差し出口は挟まずに頷きながら聞いている。
ちゃっかり持ってきた魔法瓶のほうじ茶をカップに注いで瑞希に差し出す。
その手がわずかに震えている。
瑞希はそんな玲生を横目で見ながら言った。
「お前、今、笑いたいのを必死で堪こらえてるだろ?俺が酷いめにあってるのがそんなに嬉しいか?」
「おいおい、笑ってなんかいないだろ?瑞希に同情してるよ。」
「嘘つけ!手が震えていたぞ。」
瑞希が玲生にふざけて殴りかかる。
玲生がその拳を掌で受け止める。
ぱちんと軽快な音がはじける。
玲生も瑞希も腹をかかえて笑っていた。
瑞希は夏休みの間、海外にいる親のところへは行かずに玲生の家で過ごした。
多くの時間を一緒に過ごした二人の距離は確実に近いものになっていた。
「その笑顔、他の奴にも見せてやればいいのに。もったいないよ。」
玲生は急にまじめな顔になって言った。
瑞希の顔から笑顔が消える。
「弓道部の奴だって、瑞希のクラスの奴だってみんな誤解してる。もっと他の奴にも本当の瑞希を見せてやれよ。」
玲生が真剣に瑞希の目を見つめる。
玲生の瞳は瑞希の明るい色の瞳と違って、吸い込まれそうな漆黒だった。
その瞳に瑞希の姿が映っている。
瑞希が何か言おうと口を開きかけたそのとき、稲妻が空を引き裂いた。
遅れて夏の終わりを告げる雷が大気を振動させる。
瑞希は瞬きもせずに、空を引き裂く稲妻を見つめている。
その身体は小刻みに震えていた。
「瑞希?」
瑞希はぎゅっと目をつぶり、襟元を抑えている。
「誰にもわかってもらえなくったっていい。俺、稲妻きらいなんだ。教室に戻るよ。」
瑞希はやっとの思いで掠れた声を絞り出すと、雨の中を傘もささずに飛び出していった。
後に残された玲生は、何が何やらわからずに立ち尽くしていた。
稲妻が嫌いというだけでは説明のつかないものが今の瑞希にはあった。
何もわからなくても、自分が思い上がっていたことにだけは気がついた。
ほんの少し瑞希と親しくなれたのが嬉しくて、瑞希を理解したつもりでいた。
自分だけが瑞希の理解者であるような優越感を感じていた。
玲生は自分の思い上がりを恥じていた。
学校が終わると玲生は近くの商店街で夕食の買い物をして帰る。
家に着くとまず洗濯物を取り込み、掃除をする。そして、夕食の仕度をする。
母と祖母が他界してからは、玲生が家事を受け持ってきた。
包丁さばきも堂に入っている。
『男子厨房に入らず』で育った祖父はまるで助け手にはならない。
そのくせ文句だけは人一倍多い。
幸いにして今日はそのうるさ型が老人会の月見の宴で出かけている。
このときとばかりに若者向けの献立にする。
味見をしながら、そろそろ瑞希も帰ってくる頃合と思っているところに電話が鳴った。
「はい、弓家です。…何だって?」
受話器を置くと玲生は、戸締まりもそこそこに家を飛び出していた。
瑞希が弓道部の上級生に連れていかれたという。
電話の主は場所だけを知らせると名前も告げずに電話を切った。
複数の上級生を相手にしても遅れをとる瑞希ではないが、言いようのない不安を覚えて、玲生は告げられた場所へ急いだ。
上水沿いの木立に囲まれた公園は夜の七時ともなれば、訪れる人などいない。
都心の公園でもあれば、そぞろ歩く恋人達くらいはいようが、都下の、まして駅から離れたこの辺りでは人っ子一人見あたらない。
玲生は薄暗い街灯を頼りに瑞希を探した。
いくら闇を見透かしてもそれらしき人影は見あたらない。
不安に胃が締め付けられる。
すれ違いで瑞希が家に帰っていてくれればと願うが、すぐに期待はずれであったことを知る。
玲生の目に普段はテニスの壁打ちに使われている板塀がうつった。
嫌な予感がして裏にまわる。
街灯の明かりから塀が作り出す暗がりの中に瑞希は腹を抱えるようにして横たわっていた。
「瑞希…。」
玲生は壊れ物を扱うように瑞希を助け起こした。
ハンカチで血を拭ってやろうとしても、乾いた血は容易に落ちない。
「いっつ…ん…玲生、どうしてここに?」
触れられた痛みに瑞希が目を開ける。
「誰だか知らないけど、家に電話してきたんだよ。瑞希が弓道部の先輩に連れていかれたって。」
「いったい誰だ、余計なことを。」
痛みに顔をしかめながら瑞希は呟く。
「余計じゃないよ。電話してくれてよかったさ。だけど、らしくないじゃないか。こんなにやられる瑞希じゃないだろ?」
玲生は瑞希の髪についた泥をはらってやる。
「あんまり馬鹿馬鹿しいんで相手をする気にもならなかったんだ。だけど、前から言いたかったこと思いきり言ってやったら、怒るわ、怒るわ…ボコボコに…やられたよ。」
瑞希はそれだけ言うと、また、気を失ってしまった。
玲生が名前を呼んでも目を開けない。
玲生は言いようのない怒りを感じていた。
瑞希にふるわれた暴力に対して。
瑞希に暴力をふるった者達に対して。
玲生は瑞希を背負うと、人通りの少ない道を選んで家に帰った。
祖父はまだ帰っていなかった。
瑞希は一度は目を覚まし、自分で衣服を着替えたものの、傷の手当が済むとまた眠ってしまった。
幸いにして傷は大したことはなかった。
さすがに急所は避けて殴られたらしい。
それでも今は腹を庇うように丸くなって寝息をたてている。
玲生は瑞希の額にかかる髪を掻き上げてやった。
顔はさほど殴られてはいない。
唯一切れた唇が痛々しい。
先程の目の眩むような怒りは既に収まっていた。
ただ、瑞希を守りたいと思った。
もう一度、瑞希の静かな寝息を確かめると、玲生はそっと部屋を後にした。
玲生は瑞希の部屋を出るとまっすぐに弓道場へ向かった。
暗い弓道場に灯りもつけずに入る。
灯りをつけなくても弓道場の中のことは隅々まで知っていた。
弓立に立てかけられた一張の弓を手に取る。
射場の中央に正座するとその弓の感触を懐かしむ。
それは祖父が玲生のために特別に注文して作ってくれたものだ。
しかし、ここ三年ほどは弓巻を巻いたままだった。
時折、手入れをすることはあってもその弓が弦音を発することはなかった。
それでも玲生は弓をひくことが好きだった。
精神修養のために弓道を選んだ瑞希よりも、むしろ純粋に弓をひくことが好きだった。
玲生にとって弓矢を手にすることは呼吸をするくらいに自然なことだった。
生まれたときから、弦音はいつも玲生の耳に響いていたのだから。
玲生の家は代々尾張藩の弓術師範をしていた家柄だったという。
それが曾祖父の代にこの地へ移ってきた。
曾祖父は一高・東大など幾多の学校の弓術師範をしており、祖父は今でこそ弓を手にする事も、人に弓道を教える事も止めてしまったが、以前は教鞭をとる傍ら、学校でも自宅でも弓道を指導していた。
しかし、弓道は現代教育の必須科目ではなく、弓矢の家が生業となる時代ではなかった。
そのため、玲生の父は祖父の跡を継ごうとはせずに貿易商となった。
ささやかな零細企業から始まり、事業を拡げることに熱意を傾けた。
それは父の秘書をしていた母も同じで、父の夢を実現することが母の喜びであった。
だからといって玲生が冷たい家庭で育ったというわけではない。
両親は忙しいなりに愛情を注いでくれたし、玲生も仕事の夢を楽しそうに語る父母が好きだった。
しかし、実際に玲生の世話をしてくれたのは、やはり祖父母のようなものだった。
特に祖父の徳衛は弓に興味を示す玲生が可愛くて仕方がなかった。
まだ歩けないうちから弓道場の片隅で、玲生は弓をおもちゃ代わりに育った。
弓がひけるようになると、祖父は早速、子供用の弓と矢をあつらえてくれた。
玲生の父が弓道にまるで興味を示さなかった分、祖父は喜んで幼い玲生に弓道を教えた。
玲生は成長するにつれて益々熱心になり、毎日、弓道の稽古に明け暮れた。
三年前に交通事故で母と祖母を亡くす日までは。
その日は弓道の昇段審査の日だった。
弓道連盟の役員をしていた祖父は一足先に会場へ行っており、玲生は母の運転する車で後から会場へ行くことになっていた。
久しぶりの休日を息子と過ごそうという母と玲生達の昼食を山のように作った祖母とともに。
そのまま過ぎればその日は家族の幸せな一日になるはずだった。
しかし、飲酒運転の暴走車がその幸せを粉々にした。
速度の遅いトラックを追い越そうと反対車線に飛び出してきた対向車との正面衝突事故だった。
大きな車体の陰から物凄い加速で飛び出してきた車を母はよけることができなかった。
祖母は即死、母も病院に運ばれてすぐに息をひきとり、玲生だけが重傷で一命を取り留めた。
事故から何日もたって面会謝絶の札がはずされる頃、玲生は母と祖母の死を知らされた。
愛する家族を失った悲しみは明るかった玲生の家を一変させてしまった。
玲生と祖父の喪失感も大きなものだったが、人生と仕事のパートナーである母を同時に失った父の落胆はとりわけ大きかった。
玲生の退院を待ちきれないようにして、父は仕事に復帰した。
その仕事ぶりは忙しさで悲しみを忘れようとするかのようだった。
世界中を飛びまわるように仕事をする父は家にもほとんど帰らなくなった。
そんな父にかわり、祖父は弓道を教えることを止めて、玲生の世話をしてくれた。
股関節、膝関節周辺の複合骨折と脱臼はリハビリに一年近くを要した。
生来の意志の強さと成長期途中ということもあって玲生はみるみる快方へと向かったが、母と祖母を失った心の傷は容易に治療できるものではなかった。
もし、あの日車に乗らなければ。
もし、昇段審査を受けなければ。
もし、弓道をやっていなければ。
もし、こうだったらという無意味な後悔が無数に玲生と祖父の心を苛んだ。
そんなことを悔やんだところで、起こってしまった事実は変えられないことは祖父も玲生も充分わかっていた。
心の傷は消えることはなくても、時がたつにつれ癒されていくことも。
それでも玲生と祖父が弓矢を手にしなかったのは、父の心を思いやってのことだった。
もともと弓道が好きでなかった父は、妻と母を亡くした悲しみをそのまま弓道への憎悪という形に変えたので。
「玲生、灯りもつけずにどうした?瑞希君は今日は稽古せんのか?」
老人会の集まりから帰ってきた徳衛が照明をつけながらたずねる。
母屋に玲生がいないので弓道場に来たらしい。
しかし、瑞希の姿が見えないのを不思議に思っている。
「瑞希は今日は稽古しないと思う。」
玲生は瑞希のことは何も言わずに祖父に向き合った。
「それより、俺、もう一度弓を始めようと思う。」
徳衛は困ったような、嬉しいようなどちらとも言えない顔をした。
「お前の父親が何と言うかのう。」
「父さんが何と言っても関係ないよ。やると決めたのは俺なんだから。」
玲生の返事には少しの迷いもなかった。
そんな玲生を徳衛は頼もしげに見る。
「瑞希君か?」
「うん、瑞希が弓道するのを見てたら俺もまたやりたくなった。俺も弓道部に入ろうと思う。じいさんはもう教えないんだろう?」
徳衛はゆっくりと頷いた。
「そうか、お前の好きにするがいい。お前は儂と違って、まだ若いのだから。」
「じいさんだっていつもは自分を年寄り扱いするなって言うくせに。」
「ばかもん。人の揚げ足を取るな。」
徳衛は玲生の頭を小さな子供にするようにくしゃくしゃと撫でた。
翌朝、玲生はいつもよりも早く起きて弓道場に入った。
雨戸を開け、射場を掃き清め、雑巾掛けをする。
神棚の榊の水を取り替え、水とご飯を供える。
蝋燭に灯りをともして柏手を打つ。
盛り上げた砂に水をまき、あずちを整える。
ついでに祖父が矢道に植えた植木に水をやり、的をつける。
すべて準備が終わると玲生は軽く身体をほぐした。
全身が映る鏡の前で素引きをする。
そこにはしばらくぶりに見る袴姿の自分がいた。
三年ぶりにひく弓はわずかに重い感じがする。
使われていなかった筋肉の抵抗を感じる。
玲生は静かな呼吸で丹田に気を込めた。
久しぶりに感じる充足感が玲生の全身を満たした。
身体が温まるとゆがけをはめて、巻藁矢を手に取った。
胴造りをして巻藁に向かう。
少し硬い弦音とともに矢が巻藁に突き刺さる。
繰り返し繰り返し、矢が巻藁の中央に集中するまで、玲生は巻藁稽古を続けた。
ようやく納得のいく弦音が発せられると、玲生は的前に立った。
「玲生!」
名前を呼ばれてふりかえると、弓道場の入口に瑞希が立っていた。
急いで来たらしく、ワイシャツのボタンが全部とまっていない。
「おはよう、瑞希。身体の具合は大丈夫かい?顔の傷はほとんど腫れがひいたみたいだけど。」
「そんなことより!何で玲生が弓ひいてるんだよ?弓道はやってないって言ってたのに?俺には弓道部に入らせといて、玲生は家で稽古していたのか?」
瑞希は物凄い勢いで玲生に詰め寄った。
「俺が弓道部でどんなに…。」
あまりにも勢い込んだために、瑞希は言葉が続かなかった。
玲生は瑞希を落ち着かせようと肩をつかむ。
瑞希は怒ってその手をふりはらおうとする。
「違うよ、瑞希。俺は嘘を言ったわけじゃない。本当にやってなかったんだ。前に瑞希が聞いただろう?どうしてじいさんと俺が弓をやめたのかって。」
「あ…ああ」
思いだして瑞希の動きがとまる。
「そう、三年前交通事故で母と祖母が亡くなるまで、俺とじいさんは弓をやっていたんだ。」
玲生は瑞希に語り始めた。
玲生と祖父がどんなに弓道を好きだったか。
その二人がどうして弓道をやめたのか。
交通事故のこと、父親のこと、そのときから切らなかった自分の髪のこと。
過去の出来事を淡々と語る玲生を瑞希がさえぎった。
「もういい。もうわかったから。ひどいこと聞いてごめん。俺、玲生に辛いこと思い出させた。」
瑞希の声はふるえている。
いつもの瑞希らしくない弱々しげな態度に玲生は慌てる。
「そんなに気にしなくていいよ。瑞希が無理に過去を思い出させたわけじゃない。俺が瑞希に知ってもらいたかったんだ。」
「でも、誰にだって触れられたくない過去はあるのに軽率だった。本当にごめん。」
玲生は瑞希の大げさすぎるとも思える謝罪にふと思いあたる。
触れられたくない過去があるのは瑞希の方なのではないだろうか。
玲生はまたひとつ増えた瑞希に対する思いを胸の奥に大切にしまった。
「本当に気にしなくていい。俺の中ではもう、とっくに整理のついていたことなんだ。ただ、何となくきっかけがなかっただけのことで。瑞希、俺も弓道部入るよ。」
「それって、まさか昨日、俺が弓道部の先輩達に殴られたからじゃないだろうな。それだったら断るぞ。俺は自分の面倒くらい自分でみられる。」
気色ばんだ瑞希に対して玲生は眉一つ動かさない。
「違うよ。たまたま時が重なっただけで、俺は遅かれ早かれ、弓を始めるはずだったんだ。瑞希が熱心に弓をひいているのを見ていたら、俺ももう一度やりたくなったというのは本当だけどね。今日、弓道部に行くよ。」
玲生の言葉に瑞希の顔がぱっと明るくなる。
そのとき、母屋から徳衛の二人を呼ぶ声が聞こえた。
「さあ、じいさんが呼んでるから朝食にしよう。もう支度はできてるんだ。俺は着替えてから行くから先に行ってて。」
「うん、わかった。」
玲生は瑞希の後ろ姿をじっと見つめる。
自分がいつかは弓道に戻ることはわかっていた。
しかし、瑞希を守るために弓道部に入る。
それもまた玲生の偽りようのない本心だった。

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