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2008年6月 5日 (木)

正鵠 第三章 弓構え

 学校の弓道場は校庭のはずれ、雑木林の中にひっそりと建っている。
一般の生徒の中には弓道場の存在すら知らない者さえいる。
その人気のない雑木林の中を玲生は弓道場に向かっていた。
うっかりすると見失ってしまいそうな細い道は弓道部員によって踏み固められ、いつしか自然にできたものだ。
そのために木立を避けて出来上がった道は曲がりくねっていて先が見通せない。
弓道場に近づくにつれ、鬱蒼とした木々の間に弦音が響きわたり、やがて建物が姿をあらわす。
外では、一年生の部員がそれぞれに巻藁練習や素引き練習を行っていた。
玲生はその中に瑞希の姿を見つけて声をかける。
「瑞希、今日は暑いな。来週から衣替えだっていうのに。」
「ああ、今日みたいな日は外にいられることに感謝するね。弓道場の中は暑苦しいぞ。」
瑞希は玲生ににこやかにこたえたものの、最後の言葉には上級生に対する皮肉がこもっていた。
昨日の今日とあっては無理のないことかもしれない。
玲生としても一人によってたかって暴力をふるうような輩は許し難いところだが、皮肉には気づかなかったかのように明るくこたえる。
「まあね、夏はうだるように暑く、冬は凍えるように寒い。それが弓道場というものさ。今日なんか快適な方だね。さてと、噂の先輩達にご挨拶といこうか。」
玲生は襟元をきちんととめると弓道場の中へと入っていった。
玲生が建物の中に姿を消すと、瑞希は何事もなかったように巻藁練習へと戻った。
玲生が弓道場へ来た理由は既に知っている。
瑞希が心配することは何もない。
しかし、他の弓道部員にとってはそうではない。
そこかしこで、ひそひそと囁き交わす声が聞こえた。
そんな部員達をよそに弓道場の中では玲生が部長に取り次ぎを頼んでいた。

 二学期になって三年生の姿がなくなった弓道場の中では二年生だけが的前練習をしていた。
「部長、入部希望者が来ておりますが。」
矢取りにひかえていた一年生が大きな声をはり上げる。
その声にこたえて、三人の二年生が玲生の方にやってきた。
今、玲生の前には同じ目線の高さに三つの同じ顔が並んでいた。
骨張った顔だちに短く刈り込んだ髪、筋肉質の身体はいかにもといった雰囲気だ。
三つ子とは話に聞いていたが、髪型から体型までこうも似ていると不気味なくらいだ。
部長の雨宮真(まこと)、副部長の雨宮善(ただし)、会計の雨宮美(きよし)と名のられたものの、立ち居場所を変えられたらわからなくなることは確実だった。
三人あわせて『真善美』。
弓道が目指すところの崇高な目標だ。
あまりにもぴったりな名前に玲生は笑いたくなるのをぐっとこらえた。
「一年A組弓家玲生、入部を希望します。」
無遠慮な切れ長の三つの視線が玲生を睨付ける。
「随分時期はずれの入部希望だな?君は確か我々が入部の勧誘をしたとき断ったはずじゃなかったか?」
「そうだ。弓道は中学の時にやめたと聞いたが、やめたり、始めたり、忙しいことだな。」
「いくら有段者といっても、いい加減な気持ちで弓道をやるのは許さんぞ。」
まるで一人の人物が話しているかのように、同じ声が三人の口から発せられる。
その言葉にはかなり含むところがあるようだ。
とても歓迎されているとはいえない。
部員達はどうなることかと興味津々の面もちで成りゆきを見守っているが、当の玲生はいたって落ち着いている。
「弓道から離れていたのは私的な理由ですが、いい加減な気持ちで弓を手にしたことは一度もありません。時期はずれという理由だけで入部の許可をいただけないのですか?」
玲生の態度に気負ったところは微塵もない。
三つ子の三役は落ち着き払った玲生の態度に拍子抜けの顔をしている。
しばらく三人で何やら話し合ったかと思うと、意外なほどあっけなく玲生の入部許可はおりた。
それでも一応は部長の雨宮真が不承不承といった口調で玲生に告げる。
「この入部届けは顧問の先生に渡しておく。ただし、経験者だからといって特別扱いはしないぞ。新入部員として素引、矢取りからやってもらう。それでよければ明日から稽古に出るように。」
「ありがとうございます。それで結構です。」
玲生は一礼して踵を返す。
後ろでは部員達に練習に戻るように指示する三つ子の怒声が響いていた。
弓道場を出ようとする玲生とすれ違いに、外で稽古していた部員達が入ってきた。
最後に入ってきた瑞希が玲生に尋ねる。
「どうだった?」
「入部の許可がおりたよ。俺も明日から稽古に出る。」
「そうか、よかった。」
「それより…いや、的前練習が始まるぞ。もう行った方がいい。俺は今日はもう帰るよ。」
玲生は言いかけた問いかけをのみこんだ。
それは玲生がいくらたずねても瑞希がこたえない事実だった。
誰が瑞希に暴力をふるったのか。
二年生であることは間違いないが、三つ子の三役でないことはあきらかだ。
雨宮兄弟は頭は固そうだったが、公正だった。
無抵抗の者に暴力をふるうことなど彼らには考えることもできないだろう。
瑞希に暴力をふるった者は他にいる。
玲生がそんなことを考えながら帰ろうとすると、人影が行く手を遮った。
まだ、外に残っている部員がいたのかと顔を上げると様子がおかしい。
その三人は明らかに玲生を追いかけてきていた。
玲生の視線がすうっと鋭いものになる。
無言のうちに囲まれ、弓道場の裏手の雑木林に連れていかれた。
最初に言葉を発したのは玲生の方だった。
「先輩方は的前練習に行かなくていいんですか?」
それに対する答えは返ってこなかった。
「雨宮に入部を許可されたからといっていい気になるなよ。」
三人の内の一人が玲生の肩を突きとばす。
玲生は半歩退いただけでそれを受け流した。
「別にいい気になっているつもりはありませんが。」
「その態度が生意気だって言ってるんだ。だいたいそんな長い髪の毛が弓道部で許されると思っているのか。」
玲生の後ろにまわった一人が髪の毛を鷲掴みにしてぐいとひっぱる。
玲生は冷めた瞳で三人を見た。
いわゆる今時の高校生といった風貌の三人は真剣に武道を志すタイプには見えない。
言いがかりをつける三人の方こそ、長めの髪で明るい色に染めている。
そもそも校則で何も禁じていないのだから非難されるいわれはないのだが。
玲生は無造作に髪をつかんでいる手を振り払った。
「いい態度だ。さすがにあの加賀とつるんでいるだけあるな。おまえにも先輩に対する礼儀というものを教えてやろう。まずはその髪を新入部員らしくしてやる。」
二人が玲生の両脇から腕を押さえ、残る一人が玲生の正面に立った。
その手には弓の弦を張るときに使う小刀が握られていた。
三人の低俗な意図を知って、玲生の瞳がさらに冷たいものになる。
「こうやって加賀にもその先輩に対する礼儀とやらを教えたわけですか?だが…」
玲生は言うが早いか、両脇の二年の顔に肘鉄をいれ、正面の相手の手から小刀をもぎ取りざま腹を蹴りあげた。
「生憎と俺はおとなしくなんかしていませんよ。」
玲生の声が別人のように響く。
二人は顎をおさえながら、一人は咳き込みながら思いがけないものを見てしまったように目を丸くしている。
「…が、一応先輩としてたててあげますよ。」
玲生は相手から奪った小刀で、自分の髪を束ねた根本からばっさりと切った。
切った髪と小刀を二年生に向かって差し出す。
「さあ、あなた方の望み通りだ。だが、今度加賀に対して卑怯な手段を使ったら、ただでは済みませんよ。」
玲生は特に声を荒げているわけではない。
しかし、その静かな声が普段の温厚そうな玲生からは想像できないほど恐ろしいものになっている。
三人の上級生は悔しそうにしながらも、玲生の迫力に気圧されて言葉が出てこない。
まるで雑木林の中で野生の獣に出会ってしまったかのように、玲生の目をじっと見つめたまま動かない。
そのとき、がさがさと下生えを踏みしめる音がした。
その音で呪縛を解かれたかのように、三人は脱兎のごとく立ち去っていった。
玲生は残された自分の髪と小刀を手にやれやれと息を吐く。
三人とすれ違いに姿を見せたのは瑞希だった。
「玲生、その髪!」
無惨に切られた玲生の髪に瑞希はしばし絶句した。
「あいつらの仕業か?あいつらが弓道場を出ていくのが見えたからもしやと思って…。」
言い終わらないうちに三人の後を追いかけようとする瑞希の手を玲生がつかまえる。
「違うよ瑞希。俺が自分で切ったんだ。」
いつもの穏やかな玲生の声に戻っている。
瑞希の方が怒りを声ににじませる。
「そんなわけないだろ、事故の時から髪切ってないって言ってたじゃないか。」
玲生の手をふりほどいて行こうとする瑞希の手をさらにしっかりとつかまえる。
「本当だよ。俺はまた弓を始めるんだ。もうそんなことにこだわっているべきではないんだ。」
「…玲生…」
「悪いけど、これを返しておいてくれるかな。弓道部の備品らしい。あと、これも捨ててくれると助かる。」
玲生は小刀と切った髪を瑞希に差し出す。
瑞希は黙ってそれを受け取った。
「それじゃ、俺は床屋に寄って帰るよ。俺に理容師の才能はないみたいだ。」
玲生は笑顔で言って立ち去った。
瑞希は玲生の髪を握りしめたまま、しばらくその後ろ姿を見送っていた。

 翌日の放課後、玲生は廊下で隣のクラスの授業が終わるのを待っていた。
玲生は時間でぴたりと終わる現国の授業だったものの、瑞希はいつも長びく日本史の授業だった。
同じクラスの弓道部員・杉森高志が部活に行こうと声をかけてくれたが、瑞希を待つからと言って先に行ってもらった。
終業のベルが鳴って十五分も過ぎ、ようやく日本史の先生が出ていくと教室の中は途端に慌ただしい帰り支度で騒がしくなる。
玲生は教室の中をのぞき込み、窓際の一番後ろにいる瑞希に声をかける。
「瑞希、弓道場に行こう。」
「ああ、来たな。今行く。」
瑞希が教科書をしまいながら笑顔をかえす。
その場に居合わせた者は滅多に口をきかない瑞希の声を聞き、ほとんど見たことのない瑞希の笑顔を目にして驚いた。
つづいて羨望と嫉妬の注視が入口に立っていた玲生にそそがれる。
玲生は思いがけない隣のクラスの反応に心の中で舌打ちした。
瑞希はそんな気まずい雰囲気に気づきもしないで玲生のところに足早にやってくる。
「お待たせ、さあ、行こうか。」
と行きかけて何を思ったのか急に立ち止まり、玲生の短くなった黒髪をかき上げる。
「玲生は短い髪も似合ってるよ。」
玲生はどきりとして後ずさる。
瑞希は髪を切った玲生を昨日から見て知っているはずなのに、なぜ突然こんなときにそんなことを言い出すのか。
驚きのあまり、あやうく瑞希の手をはらうところだった。
玲生は咳払いでごまかして、弓道場へと向かう。
一刻も早くその場を離れたい気持ちだった。
猛然と歩く玲生に瑞希が何事かと問いかける。
玲生はくるりと振り返ると瑞希にむかって言った。
「鈍感。」
「え?」
「鈍いって言ったんだ。」
瑞希は何のことかわからないといったふうに怪訝そうに眉根をよせる。
玲生は大きな溜息をついた。
「俺は今、瑞希のクラスの連中に嫉妬の眼差しで睨まれたんだぞ。」
「なんだ、それ?」
瑞希は益々わからないと不機嫌そうな顔になる。
「瑞希は全く自覚がないけど、瑞希のクラスの奴等はみんな瑞希と友達になりたがっているということさ。たった今、瑞希が俺に笑顔で返事をしたというだけで俺は睨まれたんだから。いや、今にして思えば前から妬まれていたかもしれない。毎朝、瑞希と一緒に登校してるんだから。」
「ちょっと待てよ。俺は嫌がらせはされたことはあっても、お友達になりましょうなんて言われたことは一度もないぞ。」
玲生は再び大きく溜息をつく。
「小学校の時、好きな子をわざといじめる奴がいなかったか?」
玲生の例えに瑞希は過剰なまでの反応を示した。
「それは女の子の場合だろ!俺は男だぞ。男子校だからって女のかわりにされてたまるか!」
瑞希は玲生がたじろぐほどに怒っていた。
「誰も瑞希を女だなんて言ってないだろ?」
「言ってる。嫉妬するだの、妬まれるだの、結局はそういうことじゃないか。」
今度は瑞希の方が玲生を置き去りにして弓道場へ行ってしまった。
「違うって。どうしてこうなるんだ?」
瑞希の後を追いかけながら、玲生は困り果てて頭を押さえた。

 弓道の稽古は礼に始まり、礼に終わる。
それは学校でも、一般の弓道場でもかわりはない。
弓道部の練習は部長の号令とともに始まる。
文字通り遅刻は厳禁だ。
特に一年生は練習の開始までに弓道場の掃除を終わらせなければならない。
当然モップなどは使わない雑巾掛けだ。
玲生と瑞希はぎりぎりで掃除が終わる前に着替えて弓道場に入ることができた。
「遅いぞ、玲生。」
先に来ていた杉森が文句を言う。
「悪い、高志。日本史の浜田が十五分も授業をオーバーしたんだ。」
「だから加賀なんか待ってないで、俺が誘ったときに一緒に来れば良かったんだ。」
杉森は不満気な視線を瑞希に向けた。
玲生はそれと知れないように杉森の視線をさえぎる。
「さて、俺達は何をすればいいのかな。」
「的付けがまだだよ。」
「わかった。瑞希、俺達は的場に行こう。高志、射場から的の高さを見てくれ。」
玲生はそう言うと、まだ何か言いたそうにしている杉森を残して的場へ向かった。
瑞希も無言で玲生の後を行く。あずち横の的置場で的と侯串を取り出す。
「的は何個付けにするんだ?」
玲生は弓道部では先輩にあたる瑞希にたずねる。
「…五個付け。」
不機嫌そうな返事がかえる。
「まだ、さっきのことを怒っているのか?」
玲生は的をつける手は休めずにきいた。
瑞希は返事もせずに黙々と的をつけている。
玲生はそれでも構わずに話し続けた。
「俺は謝らないぞ。瑞希のことを女の子みたいだなんて一言も言ってないんだから。正直に白状すれば、初めて会ったときは一瞬だけ思ったことはある。ただし、それ以外は一度だってそんな風に思ったことはない。瑞希はおよそ女々しくなんかないし、腕っ節も強い。だけど、咲いている花を単純に美しいと思うのと同様に、瑞希の容姿が綺麗だと思うのも事実だ。瑞希は自分の顔が嫌いだと言うけれど、俺は瑞希の顔は好きだ。だからといって顔で友達を選ぶわけじゃない。外見も性格も何もかもひっくるめて瑞希という人間と友達になりたいと…。」
返事をしなければ延々と続きそうな玲生の真剣な言葉を瑞希は押し殺した声でさえぎった。
「もういいよ。わかったからやめてくれ。聞いてる方が恥ずかしくなる。」
瑞希は玲生の方を見ようともせずに最後の的をつけているが、横顔に困ったような戸惑いがあらわれている。
それは瑞希が人から好意を示されたときに必ず見せる表情だった。

 弓道部の稽古が始まると玲生はしばし全てを忘れて夢中になった。
祖父に弓道の教えを受けた玲生にとって学校弓道は疑問に思うところも無きにしもあらずといったところだが、弓道の根幹はどこで習おうと同じものだ。
玲生はあらためて弓道を始めたことで、自分がどれほど弓道を好きであったかを今さらのように知った。
延々と素引と巻藁練習をいいつけられても、矢取りも看的も楽しくて仕方がないといったふうにこなす。
玲生はそれらを意識的にやっているわけではないのだが、そういった姿勢はいつしか他の部員にも好意的に受け入れられていった。
特に同学年の部員達のよせる信頼は大きなものだった。
先輩より玲生に型を見てもらおうとする者までいる。
そのことで上級生の中には反感を持つ者もいたが、数の上では少ないもので表立ってからんでくることはなかった。
例の三人の二年生もあれ以来、玲生と瑞希に嫌がらせをする気配はない。
そして、上級生の中で玲生の弓道に対する真面目な姿勢を誰よりも認めてくれたのは、他でもない三つ子の雨宮兄弟だった。
ただ、彼らには弓道とはこうあるべきという独特の信念があるので、玲生や瑞希とは意見が対立するのだった。
細かい問題はあるにしても一ヶ月が過ぎる頃には、玲生はすっかり弓道部に馴染んでいた。

  弓道部での稽古は立射になる。
瑞希はこの立射による稽古があまり好きではない。
特に弓道部での立射は慌ただしく、瑞希の息合とあわないことおびただしい。
玲生は矢取りや看的に入って瑞希の的前練習を見るたびに、やれやれと頭を押さえたものだ。
瑞希も他の部員もお互いに、全く息を合わせようというつもりがない。
瑞希は自分の気息で優雅に行射を行い、他の部員は当たりをねらった力強い行射を行う。
その結果、実にちぐはぐな見苦しい行射となるわけだ。
弓道は一見相手のない個人技のように思えるが、実はそうではない。
もちろん一人で的前に立つのであればそれでいいのだが、複数で的前に立つときは他との調和が求められる。
あるいはそれが礼であるといってもいいかもしれない。
弓道はただ的に当たればよいというものではない。
どんなに見事な体配をしていても他に礼を失していれば、画竜点睛を欠くというものだ。
瑞希が一人で弓をひくとき、その気息は流れる笛の調べのように滑らかだ。
しかし、それを人と共有することが瑞希にはできない。
玲生にも自分の息合いというものはある。
しかし、祖父が指南する弓道場で多くの門下生と一緒に稽古をしていた玲生は人と息を合わせることを知っている。
だから玲生にとって、それは苦でも何でもないものだった。
そこで的前練習の許しがでて、瑞希達と一緒に的前に立てるようになると、玲生は部長の雨宮に提言をした。
立ちで玲生を瑞希の前に、そして、瑞希の後には杉森を入れてくれるように。
瑞希の入る立ちは以前から問題があったので、雨宮はあっさりと許可してくれた。
また、そのことに文句を言う者も一人もいなかった。
いや、実際には一人だけ文句を言った者がいる。
「何で俺が加賀の後に入らなくちゃいけないんだよ。」
杉森は玲生を弓道場の外に連れ出して抗議した。
「すまないけど、おまえしか頼めるやつがいないんだよ。『真善美』の息合はあの通りだし、中学から弓道やってるおまえだったら瑞希の息合にあわせる事なんか簡単だろ?」
玲生にこう言われては杉森に否とは言えない。
「…う…まあな。」
渋々と立ちで瑞希の後に入ることを了承した。

「次の立ち、雨宮善、弓家、加賀、杉森、雨宮真。」
黒板に当たりをつけている一年生が次の立ちの名前を呼ぶ。
控えで玲生と杉森に挟まれて立つと瑞希は不機嫌この上ない顔をした。
(何をこそこそやってるんだ?)
稽古中は私語禁止なので、口に出してこそ言わないものの、立ちの順番を画策した玲生に対して瑞希は非難の視線をあびせる。
しかし、前立ちの弦音で揖をして射位に進むと瑞希の表情は変わった。
行射が進むにつれ、他の部員達の顔つきも、おや?と変わる。
今まで瑞希が入っている立ちは必ず息合がばらばらだったものが、今日は違っていた。
流れるように行射が行われる。
その結果、自然と弦音も冴え、当たりも良くなる。
「射!」
看的に入っている一年がたてつづけに当たりを告げた。
立ちが終わると、どこからともなく溜息が漏れた。
続く立ちも調子があがる。
他の者の調子がいいと、つられて当たりが良くなるものだ。
その日の稽古はいい雰囲気のうちに終わった。
着替えて帰ろうとしている杉森に瑞希が声をかける。
「今日は…息合を合わせてくれて…ありがとう。」
瑞希にぽつりと礼を言われて杉森は驚いた。
「べ…別に俺は何もしてないから礼を言われる筋合いはない。でも今日の稽古はよかったな。じゃあな。」
杉森は照れくさそうに言うと走って行ってしまった。
「玲生も…すまない。玲生が部長に頼んだんだろ?俺、初めて人と息合を合わせて行射することができたと思う。」
「礼なんか言う必要ないよ。でも今日の行射は気持ちよかったな。俺も三年ぶりの立ちにしてはいい出来だったよ。明日も頑張ろうな。」
玲生が笑顔で言う。
「ああ。」
と瑞希が返事をする。
そのとき、一年の小沢が追い越し際に瑞希に声をかけた。
「加賀、今日の行射良かったぜ。」
瑞希の顔にはあのいつもの戸惑った表情が浮かんでいた。

 男子校の生活はむさ苦しい。
多感な年頃に同性だけの集団の中に身を置く彼らにとって、学校生活以外の関心事は必然として異性のことになる。
他校の女学生に憧れ、芸能界に自分の理想の女性を見出す。
それは味気ない学校生活に彩りを添えるありふれた風景だ。
その男子校の中にあって、あり得ない存在が加賀瑞希だった。
入学当初、校内で初めて瑞希を見たものは必ずぎょっとした。
美少女が校内に紛れ込んだのかと思うのだ。
学校の制服を着ているのだからそんなことはあり得ないのだが、知らない生徒は必ず一度は驚いた。
瑞希が同性であることを知っても、どうしても彼らには瑞希が自分たちと同じ生き物であることを納得しかねるのだった。
瑞希が他者と交わろうとしないのも、その神秘性に拍車をかけた。
その結果、ある者は秘かに憧れ、ある者は反感を抱いた。
瑞希の方は一切無視しようとするのだが、好むと好まざるにかかわらず周りの方が放っておいてはくれない。
それは瑞希の子どもの頃から変わらない。
そのせいで瑞希は自分の容姿が嫌いだった。
災いは全てこの容姿にあるとさえ思っていた。

 昼食を終えて玲生と瑞希が屋上から戻ってくると、廊下でたむろしていた瑞希と同じクラスの佐藤という少年が仲間から離れて二人の行く手をさえぎった。
「いつも二人だけで弁当食べに行って、怪しいんじゃねえの?野郎二人で何してるんだか?」
愚にもつかない挑発に、呆れて二人が受け流そうとしていると、また別の少年が割り込んできた。
玲生と同じクラスの杉森だった。
「そういうのを下衆の勘繰りというんだ。そんなことを言うお前の方が怪しいんじゃないのか?」
「なんだとお?お前の方こそ弓家のかたを持っておかしいぞ。」
男子校のことゆえ、あわやつかみ合いの喧嘩になるというところで玲生が止めに入った。
「二人ともつまらないことで熱くなるなよ。そんなに俺達と弁当が食いたいなら、今度みんなで一緒に食べればいいじゃないか。天気のいい日に屋上で弁当食べるのは気持ちがいいぞ。」
とぼけた明るさで二人の手を引き離す。
「そんなんじゃねえよ!」
玲生に捕まれた腕をふりほどこうとした佐藤の顔色が変わった。
捕まれた腕はびくともしなかった。
佐藤がようやくあきらめて力を抜くと、玲生はにっこり笑ってその手を離した。
「別に無理にとは言わないよ。明日天気が良かったら屋上で弁当を食べる。参加希望者は現地集合というわけだ。以上、解散。さあ、授業が始まるぞ。」
玲生は人垣を作って集まっていた生徒達を教室へ追い返し、またたく間にその場を治めてしまった。
そして、事実その翌日の昼休みは何故か大勢の生徒で屋上が賑わうことになる。
玲生と瑞希、そして例の二人の姿も屋上にあった。
瑞希は不思議でしようがない。
玲生はどうやってこういうことを可能にしてしまうのか。
人と話すことが苦手な自分ですら、いつの間にか名前も知らない連中と弁当を食べる羽目になっている。
しかも会話することに苦痛を感じない。
瑞希はその理由に気がついた。
会話の中で必ず玲生が瑞希と他の少年の間に入っている。
意図的にやっているわけではないようなのに、自然に人と人を結びつけてしまう。
そんなところが玲生にはあった。
弓道部での玲生もそうだ。
瑞希は自分にないものを玲生の中に見つけて羨望した。
今まで馬鹿馬鹿しい問題を避けるために人とのつき合いを拒んできた。
ひとりでいることが強さであると錯覚もしていた。
自分の頑なな態度が他でもない自分という人間の成長を妨げていたことにふと気づく。
瑞希の中で何かが変わり始めようとしていた。

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