正鵠 第六章 会
瑞希は自分の部屋に戻るとベッドの上で膝を抱えて座り込んだ。
眠れるわけがない。
眠気などとうに何処かへいってしまった。
真っ暗な部屋の中、カーテンの隙間から差し込む一条の月の光が瑞希の顔を照らし出す。
瑞希の瞳は光をとらえてはいなかった。
もっと遠く、深淵の闇を見つめていた。
心の奥底に閉じこめていたはずの記憶。
瑞希の存在全てを蹂躙していた過去。
瑞希の心は時の彼方の暗く濁った奔流に呑込まれ悲鳴をあげていた。
窓の外は嵐、ときおり稲妻が走る。
部屋の中は夜の闇が支配していた。
稲妻が瑞希の恐怖にかられた顔を壁の鏡に映し出す。
いくら助けを求めて叫んでも、こたえてくれる人は誰もいなかった。
母は瑞希の妹を出産するために病院に入院している。
家族が増えることを喜び、母を見舞ってきたのは今日の昼間だ。
今、目の前にいる義父と一緒に。
「やめて!お義父さん。」
瑞希は信じ難い現実から必死に逃れようとしていた。
しかし力強い腕はそれを許してはくれない。
義父は抗う瑞希をベッドに押さえつける。
「どうして嫌がるんだ?瑞希はお義父さんのこと好きだって言っただろう?」
その声は行われている暴力とは裏腹に甘く優しかった。
「言ったけど、こ…んなのは嫌…だ。」
瑞希の表情は嫌悪に歪んでいた。
義父は拒絶する瑞希を不思議そうに眺めやる。
「お義父さんは瑞希を一目見たときから好きになった。瑞希を私のものにしたかった。一緒に暮らすようになってから毎晩、瑞希の寝顔を見ながらこの日が来るのを待っていたよ。」
義父は恍惚とした笑みを浮かべながら瑞希を抱擁した。
瑞希はそこに見知らぬ男を見いだして恐怖に凍りついた。
魂が抜けたように抵抗をしなくなった瑞希を男は欲望のままに我がものとする。
瑞希の心は傷つき、裏切られ、虚空を漂っていた。
瑞希の母は葛木という厳格な旧家の末娘として生まれた。
その母が留学中に英国人の父と恋に落ちた。
けれど、家柄を誇る両親に二人の結婚が許されるはずもなく、母は全てを捨てて父と結婚した。
家に連れ戻されるのを逃れて英国で暮らすうち、瑞希を出産し、ささやかながらも幸せな家庭を築いていった。
しかし、幸福な日々は長くは続かなかった。
瑞希が物心ついた頃には父はこの世の人ではなくなっていた。
世間知らずの母が親の反対を押し切ってまでの結婚という大胆な決心ができたのも、父という庇護者がいればこそだった。
自分を守ってくれる最愛の夫を失った母には幼い瑞希を抱えて自分一人の力で生きていく才覚も強さもなかった。
実家を頼る以外の術はなく、瑞希を連れて両親に頭を下げた。
しかし、家の体面に傷をつけた母を旧家の古い屋敷が暖かく迎えてくれるはずもなかった。
ましてや外国人の血を引く瑞希は祖父母にとって厄介者以外の何物でもなかった。
日本における生活は瑞希と母にとっては辛いものとなった。
母は幼い瑞希をかばいながら、祖父母の冷たい仕打ちに耐えていた。
同じ屋根の下に暮らしていながら、瑞希に肉親の愛情をそそいでくれたのは母だけだった。
瑞希は成長するにつれ、かよわい母に守られるよりも守りたいと願うようになった。
その度に自分の無力さを思い知らされた小学六年生の頃、加賀雅美(まさよし)は母の再婚相手として瑞希の前に現れた。
立派な家柄の現役外交官。
祖父母にとっては願ってもない縁談の相手だった。
母の意思などお構いなしに話は進められた。
瑞希は自分こそが母を守らなければと心に決めていた。
しかし、その決心は空振りに終わる。
見合い相手の加賀は予想に反して好印象だった。
誠実で温厚そうなその男は見合いに同席した瑞希に優しく微笑んでみせた。
瑞希には母の再婚を反対する理由が見つけられないまま、日々は過ぎていった。
加賀は母に会うときは必ず瑞希を同行させた。
そうしたことが母と瑞希に信頼を抱かせるようにしたのかもしれない。
いつしか瑞希と母はその男が保護者となることを受け入れていた。
母は夫として、瑞希は父として。
母が再婚してから一年余りは幸せな日々が続いていた。
ゆったりとしたマンションで誰にも気兼ねすることなく生活する母。
瑞希は瑞希で顔すら記憶にない父の面影を義父に求め、それは望めば与えられた。
義父は瑞希をとても可愛がった。
仕事から帰ると瑞希の相手をし、休みにはいろいろな所に瑞希を連れて出かけた。
その仲睦まじい様子は実の親子以上に思われた。
母は喜び、瑞希はそれを父性愛と信じていた。
義父の溺愛の不自然さに気づきもしなかった。
瑞希はあまりにも父の愛に飢えていたので。
父という存在に愛されることを渇望していたので。
瑞希は加賀雅美を父として慕うようになっていた。
窓から射しこむ朝日に瑞希は目を覚ました。
酷い悪夢を見たような気がする。
汗をびっしょりかいて気持ちが悪い。
身じろぎした途端に身体に激痛が走った。
「目が覚めたのかい?」
驚いて飛び起きた拍子に再び苦痛に苛まれる。
夢ではなかった。
義父が瑞希の傍らに横たわっていた。
見慣れた優しい笑みを浮かべ、瑞希を見つめている知らない男。
「おはよう。昨日は素晴らしい夜だったね。」
心底嬉しくて仕方がないといった様子だ。
「どうして…。あんなこと…。」
瑞希は嫌悪に唇を震わせ、義父を睨みつけた。
義父はそんな瑞希を不思議そうに見つめる。
「どうしてって、瑞希が好きだからに決まっているじゃないか。」
瑞希は義父の返事に泣きたい気持ちで首を振る。
「好きだからあんなことをしたっていうの?僕は男なんだよ。それにあなたは母さんと結婚したんじゃないか。」
「そうだよ。瑞希を私のものにしたかったからお母さんと結婚したんだよ。」
「そんな…」
瑞希には義父の考えていることが理解できなかった。
恋愛というものすら知らない瑞希に歪んだ愛情をわかれという方が無理だった。
「僕は嫌だ。あんなことは絶対に嫌だ!」
瑞希の激しい拒絶に義父の顔が険しいものに変わる。
「お義父さんは聞き分けの無い子は嫌いだよ。」
折れるかと思うほど手首をねじ上げられ、押さえつけられる。
小柄で華奢な瑞希には振り解くこともできない。
「絶対に嫌だ!母さんに言いつけてやる。」
痛みに耐えながらやっとの思いで声を絞り出す。
目の縁に涙がにじんだ。
「ほう、お母さんに言ってどうするんだ?ここを出て、また葛木の家に戻るのか?」
義父の声が残酷に響いた。
瑞希と母を厄介払いした肉親の愛情薄い祖父母だ。
再び頼ることなどできるはずがない。
母にも瑞希にも行く当てなど何処にもなかった。
義父は質問の意味するところが瑞希の中に落ちつくのを待ってゆっくりと言った。
「じいさんたちを頼らずにお母さんは瑞希と生まれたばかりの赤ん坊を抱えて生活していけるのか?」
もちろん、母がこのことを知れば、すぐにでもこの家を出るだろう。
しかし、そんなことを母にさせるわけにはいかない。
瑞希一人の時ですら、祖父母を頼らなければならなかった母なのだ。
小学生の瑞希には他の選択は考えられなかった。
「わかったかな?」
満足そうな男の問いに瑞希は無言で頷くしかなかった。
それから三年近く、義父との呪わしい関係は続いた。
母と妹の生活を守るために義父との関係を壊すわけにはいかなかった。
望まれるままに瑞希は自分自身を義父に与えた。
母にはひたすら隠しながら。
瑞希の心には義父との忌まわしい行為に対する嫌悪と同時に、それに相反する感情も確かに存在していた。
義父は瑞希と共有する秘事以外は信じられないほど良き夫であり、父だった。
義父の父である部分を瑞希は憎みきれないでいた。
仮にそれが表面上の偽りであったとしても。
父親という言葉は瑞希にとって特別な感情を封じ込めた扉を開く鍵だったので。
瑞希の無意識の心には父親とは最も忌まわしいもの、そして、それ故に最も憧れてやまないものとして刻まれていた。
朝食も昼食も食べてくれる者のないままに冷えていった。
玲生は一人、誰もいない台所の椅子に腰掛けている。
祖父はまだ旅行から帰って来ない。
瑞希は昨夜から二階に上がったまま降りてこなかった。
玲生も食事がしたくて作ったわけではなかった。
家中がひっそりと重苦しい空気に包まれて、玲生は何かをしないではいられなかった。
瑞希に謝らなければと思いながらも、自分から瑞希の部屋へ向かう勇気がでなかった。
何と言って謝ればいいのか。
自分の感情を抑えきれなかったこと。
知らなかったとはいえ、瑞希の過去にふれてしまったこと。
許してもらえるとは思えない。
自分でさえも許せないのだから。
コトリ!
小さな物音に驚いて振り返ると瑞希が立っていた。
面変わりした様子が痛ましい。
おそらく一睡もしていないに違いない。
「すまない、瑞希。謝って済むことじゃないけど、二度とあんなことはしない。」
玲生は心の底から謝った。
「でも、瑞希を好きな気持ちは嘘じゃない。恥じるつもりもない。瑞希にあんなふうに無理強いしたことは謝るけれど。」
真摯な言葉も瑞希の心には届かない。
こわばった表情は能面のように動かない。
「どうすれば許してもらえる?どうやって償えばいい?瑞希の気が済むなら何でもする。」
「何でも?死ねと言えば、死ぬとでもいうのか?」
「瑞希が望むならそうするよ。」
玲生は淀みなく即座に答えた。
澄んだ眼差しで瑞希の瞳を見つめる。
先に目を逸らしたのは瑞希の方だった。
「ばかばかしい。そんなことしたって何が変わるというんだ?俺が友達を失ったということに変わりはないじゃないか。」
瑞希は横を向いたまま独り言のように呟いた。
「友達なんかいらない。信じなければ、裏切られることもない。」
まるで自分に言い聞かせているかのようだ。
「償いなんていらない。もう顔も見たくない。それだけだ。」
瑞希の残した言葉は冷たく容赦がなかった。
覚悟はしていても軽く受け流せるものではない。
薄暮に暗くなっていく部屋の中で、灯りもつけずに玲生は立ち尽くしていた。
どうすればいいのだろう、何処へ行けばいいのだろう?
瑞希から逃れるようにして家を出たものの、何処にも行くあてはなかった。
日曜日の夜とあって、それほど人通りは混雑してはいない。
特に店を選ぶでもなく、自虐的に酒を煽った。
背が高く、落ち着いた顔だちの玲生は私服の時に未成年に見られたことはない。
したたかに酔い、自分で自分を持て余していた。
答えを見つけるどころか正しい判断能力も失い、自分の足元すらも覚束ない。
そのとき、若い会社員風の男が玲生に近づいてきた。
傍から見るものには飲み過ぎた友人を介抱する様子に見えたかもしれない。
いつもの玲生ならば、親切そうに見える男の目に潜む妖しい光に気づいたはずだ。
あるいは気づいていながらも無視する程、自暴自棄になっていたのか。
玲生は促されるままに男に着いて行った。
連れて行かれたのは薄暗い照明のホテルの一室。
何をするための部屋か一目でわかるその部屋には退廃の淀んだ空気が充満していた。
咄嗟に身を翻した玲生の行く手を男が遮る。
「ここまで来て逃げるのはなしだぜ。」
男の顔が欲望に醜く歪んだ。
気がつくと玲生はホテルのベッドに横たわっていた。
男の姿は既にない。
一糸纏わぬ姿のまま、文字通りぼろ雑巾のように打ち捨てられていた。
片肘を立て、鉛のように重い身体を起こす。
「俺は…くっ…ははは…、…無様だな…」
自虐的な笑いが虚ろに部屋に響く。
止めどなく涙が流れ落ちた。
動く度に痛みが走る身体をようやく引きずってバス・ルームに入る。
どんなに身体を洗っても不快な感覚はまるで消えない。
自分が腐臭を放っているような気がした。
身支度をしてホテルを後にする。
いったい何時頃なのか。
やっと出た表通りはネオンの光が洪水のように押し寄せてくる。
あまりの眩しさに目眩がした。
街の喧騒に頭が割れそうに痛む。
胃液が逆流し、身体を二つに折曲げて嘔吐する。
身体が悲鳴をあげて玲生の意思を拒絶する。
立っていられずに道端に座り込んでしまった。
道行く人が嫌な顔をして玲生を避けていく。
瑞希を傷つけた自分が許せなかった。
瑞希の傷ついた心をどうすれば癒す事ができるのかわからなかった。
望まない性行為。
それは肉体の苦痛だけにとどまらず精神をも犯す。
簡単に忘れられるものなどではない。
自分もああいうことを瑞希に望んでいたのか?
自分もあの男のように欲望のたぎった瞳で瑞希を見ていたのか?
男から受けた暴行によって玲生は自覚以上に打ちのめされていた。
絶望と後悔を噛みしめながら、玲生は家に帰る事もできずに膝を抱えてうずくまっていた。
「おい、あんた大丈夫か?具合でも悪いのか?」
玲生はどのくらいその場所にそうしていただろう、通りがかりの青年に声をかけられた。
肩に触れられ、びくりと身を引く。
見上げた瞳は怯えて震えていた。
「…おまえ、玲生!こんな所で何してるんだ?」
「か…げゆき…何でこんな所にいるんだ?」
「それはこっちの台詞だろ。」
それは玲生がよく見知っている顔だった。
弓守(ゆもり)影之、仲の良い年上の従兄。
古い知り合いに会った安堵感に、玲生は自分の意識の手綱を手放した。
限界まで自分を追いつめていた玲生の意識は暗闇の中に沈んでいった。
瑞希が前を歩いていく。
後ろを振り返り、何か言いたそうにしている表情が切ない。
切なすぎて胸が締め付けられる。
何度も呼びかけているのに、瑞希は立ち止まってはくれない。
遠ざかる瑞希を捕まえようと伸ばした手を誰かにつかまれ、玲生は目を覚ました。
逞しい大きな手が玲生の手を握っている。
「目が覚めたか?凄い汗だな、今タオルを持ってきてやるから待ってな。」
玲生の顔を心配そうに覗き込んでいた大きな身体が退くと見たことのない部屋の風景が広がった。
玲生は寝間着に着替えて布団に寝かせられていた。
「ここは…何処だ?どうして影之が日本にいるんだ?」
まだ夢と現の間ではっきりしない頭でたずねる。
従兄の影之は弓道連盟の派遣指導員としてハワイに行っているはずだ。
「交代要員が予定より早く見つかってな、昨日こっちに帰ってきた。」
隣の部屋からでも聞こえる大きな声で影之は玲生の問いに答えた。
久しぶりに会った影之は陽に焼けて健康そうだ。
褐色の肌と色素の抜けた長髪からは南国の太陽の香りがした。
「仕事場でも家でも親父と顔をつき合わせるのは欝陶しいだろ?友達が留守の間、このマンションを借りているんだ。」
影之の家は代々弓具店を営んでいる。
父はこの世界では名の知れた腕の良い弓師であり、影之もゆくゆくは跡を継ぐ。
しかし、普通の人が影之の生業をその外見から想像するのは難しい。
彫りの深い整った顔は日焼けして益々日本人離れし、その顔立ちに不釣り合いな位逞しい体躯は格闘家のようだ。
その逞しい大きな手で玲生の額の汗を拭いてくれる。
予想に反して、その大きな手は羽毛のように優しかった。
影之が首筋から身体を拭こうとした瞬間、玲生は身体をこわばらせた。
昨夜の記憶が蘇るとともに吐き気を催す。
口元を抑えて必死で堪こらえる。
影之は玲生を抱きかかえて素早く洗面所に連れて行った。
「我慢しないで吐いちまいな。その方が楽になるから。」
嘔吐してももはや胃液しか出てこない。
苦しさに身体が痙攣する。
ようやく納まり、差し出されたタオルで口を拭う。
影之は幼子を抱くようにして玲生の背中をさすった。
「俺が日本にいない間に何があった?昨日は何であんな所にいたんだ?瑞希って誰だ?」
矢継ぎ早に質問する影之を玲生は押し退けた。
しかし、よろけて倒れそうになる。
慌てて影之が抱きとめる。
「この馬鹿、無理すんなよ!お前熱だしてるんだぞ!」
再び抱きかかえて玲生を布団に寝かせてやる。
もはや影之の顔は笑ってはいない。
「玲生、隠そうとしても無駄だぞ。俺はお前を寝間着に着替えさせたんだからな。それじゃ一目瞭然なんだよ。」
指を突きつけられ、玲生は寝間着の襟元をきつく抑えた。
身体中に残された赤い斑紋、背徳の証。
影之の手が玲生の前髪を優しくかきあげる。
それだけでも玲生はびくりと身体を硬くする。
「俺はお前を尋問しているわけじゃない。言いたくないなら言わなくてもいい。でも、今のお前はいろんなものが詰まっていてはちきれそうに見えるぞ。心のしこりも吐いちまった方が楽になるんじゃないのか?」
暖かい掌で頬を包まれると自然に涙がこぼれ落ちた。
祖父にも相談できなかった事がこの従兄には言えるような気がした。
そして従兄は黙って静かに玲生の話を聞いていた。
瑞希の事、昨夜の事、全て話し終えると玲生の肩から力が抜けた。
「少し眠るといい。じいさんには俺から適当に言っておくから。」
そう言って影之は部屋を出て行った。
誰かに話したからといって解決するわけではない。
けれど取り合えず今は玲生は眠りに落ちていった。
瑞希は自分の部屋に閉じこもったままだった。
玲生が出かけてくると声をかけてきたときも、返事はしなかった。
何をする気にもなれない。
ただ、悶々ときりのない思考の迷路を彷徨っていた。
何故、自分の身には同じようなことがふりかかるのか。
実の父が亡くなって母と日本にやってきたときも、瑞希は葛木の家で理不尽な仕打ちに耐えるしかなかった。
義父に歪んだ愛情を強要されたときも、頼るべき場所は何処にもなかった。
弓家の家に来て、初めて自分の居場所を見つけたと感じていた。
この生活がいつまでも続くことを望んでいた。
それなのに。
ここでもまた期待を裏切られた。
どうして自分は同性から恋愛の対象とされるのか。
自分からそういう態度をとっているつもりは毛頭ない。
それに、できるだけ人とのつき合いを避けていた。
人と距離をおくようにしていた。
その距離を玲生は一歩一歩近いものにしていった。
ついには並んで歩み立つまでに。
考え込む瑞希の手には長い黒髪の束が握られていた。
それは玲生が弓道部に入部するときに切ったものだ。
あの時、捨ててくれと渡されたその髪を瑞希は捨てずに持っていた。
何故か、捨てられずに、信頼の証とでもいうように。
(信頼させておいて、裏切った。)
瑞希はその髪を思いっきり壁に投げつけた。
夕刻、徳衛が旅行から帰ってくると、家の中は真っ暗だった。
しんと静まりかえって人の気配がない。
灯りをつけながら二階へ上がる。
「玲生、瑞希くん、二人ともいないのか。今、帰ったぞ。」
玲生の部屋は開け放たれたまま、誰もいない。
瑞希の部屋に鍵はかかっていなかった。
暗がりにうずくまる人影がある。
徳衛は灯りをつけて声をかける。
「こんな暗がりでどうしたんだね。玲生は何処に行った?」
瑞希がびくりと跳ね上がる。
徳衛の姿を認めてかすれた声でこたえる。
「玲生は、出かけました。行き先は聞いていません。」
それから一呼吸おいて、瑞希は続ける。
「あの、僕はここを出ます。母に連絡して、なるべく早く別のところを探します。」
突然の瑞希の申し出に徳衛は驚く。
「玲生と喧嘩でもしたのかね?」
徳衛が近づくと瑞希はびくりと後退する。
徳衛は溜息をついて瑞希をなだめる。
「そんな捨てられた猫のように警戒せんでもいい。どうせ玲生の奴が何かやらかしたんだろう。」
徳衛の確信のこもった言葉に瑞希はどきりとする。
「そんなんじゃありません。ただ、一人暮らしがしてみたくなっただけです。」
瑞希の声は先細りになり、最後の方は呟きのようになった。
徳衛は断固とした、しかし、優しい声で言った。
「だめだ。君は儂が吉岡範士から責任を持ってお預かりしたのだ。一人暮らしをさせるわけにはいかないよ。」
「でも…」
「瑞希くん、人が人と関わるとき、そこには必ず何らかの摩擦がおきる。いい意味でも、悪い意味でも。時には全く思いがすれ違うこともあるだろう。理解し合えないこともあるだろう。しかし、人は人の中で生きていかなければならない。避けて通ることはできない。何があったのか知らないが、逃げることだけはしないでほしい。けれど、これは瑞希くんの気持ちを曲げて我慢しろといっているのではないよ。まず君がどうしたいのか、もう一度よく考えてごらん。そのうえで歩み寄れるものなのか、別の道をゆくのか答えを出しても遅くはないだろう。」
徳衛はいつもするように瑞希の頭をくしゃくしゃと撫でた。
瑞希は逃げずにされるままになっていた。
その筋張った老人の手は瑞希にとって、もう馴染み深いものになっていたので。
「儂は家族というものは心のよりどころだと思っている。血のつながりとか一緒に暮らしているというだけのものではないと。だから、たとえ心の行き違いがあっても、いつかはわかりあえるものだと信じているよ。」
徳衛の言葉に涙がこぼれ落ちる。
瑞希はその涙を止めることも隠すこともできなかった。

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