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2008年6月2日

2008年6月 2日 (月)

正鵠 第一章 足踏

 少年は一人で無心に弓をひいている。
そこは他者の介入を許さない彼だけの空間だった。
玲生(あきらお)は少年の邪魔をしないように控えに正座し、その場の空気を乱すことなく少年の行射を見つめつづける。
やがて一手の行射を終えた少年が弓を置くためにふりかえった。
その見る者を魅了せずにはいられない印象。
彫りの深い顔だちと明るい色の髪は異国の人形を思わせる。
滑らかな肌が白磁のようだ。
少女と見紛うばかりの美しさとはこういうことを言うのだろうと玲生は漠然と感じていた。
「君は?」
誰何の声が玲生を現実に引き戻す。
少年は弓を立てかけ、ゆがけをはずすと玲生に面と向かった。
きちんと糊のきいた白い稽古着と折り目の整った袴姿が清々しい。
それに対して玲生は、洗い晒しのジーンズにデニムのシャツ、肩までかかる長い髪。
およそ弓道場には似つかわしくない格好だった。
少年はいぶかしいものでも見るように玲生の方を見た。
しかし、当の玲生はそんなことはまるで気にしていない。
人懐こい黒い瞳がにこやかに笑いかける。
「はじめまして、俺は玲生、弓家(ゆげ)玲生。」
少年はそれを聞いて、思い当たったようにうなづく。 
「先生のお孫さんですね。僕は今日からこちらにお世話になります加賀瑞希といいます。どうぞよろしくお願いします。」
少年は礼儀正しく挨拶をした。
しかし、その表情に微笑みはない。
「こちらこそ、よろしく、瑞希。」
玲生の方はといえば、全く屈託がなかった。
まるで旧知の友人に話しかけるような調子で気軽に右手を差し出す。
いきなり『瑞希』と名指しで呼ばれた少年は無表情のまま、差し出された手を凝視している。
玲生は苦笑しながら、拒絶され行き場を失った右手で長い艶やかな黒髪をかき上げた。
「ごめん、会っていきなり名前で呼ぶのは失礼だったかな?」
玲生は素直に謝ったが、少年の返した言葉は冷ややかな響きのものだった。
「いえ、ただ名前で呼ばれるのは慣れていないもので。」
「そう、でもこれからは同じ屋根の下で暮らすわけだし、同じ学年だそうだから、名前で呼び合ってもいいんじゃないかな。」
「いえ、僕はお世話になる身ですし、会ったばかりでそういうわけにはいきません。」
少年はあくまでも頑なな態度をくずそうとはしなかった。
そんな少年に対して、玲生は何かしら違和感を覚えた。
目の前にいる存在は無機質で現実味を欠いた感じがした。
先程きいた弦音はこんなふうだったろうか。
何かもっと激しい豊かなもの。
およそ冷静とか、おとなしいといった印象とは無縁のものだったはず。
「会ったばかりがいけないなら、どれくらいたったらいいんだい?」
「そういうものは月日で決められるものではないと思います。」
「月日でないなら、君が名前を呼んでもいいと許可をくれるまで、俺は待たなくちゃいけないのかい?」
「許可するとかじゃなく、親しくなったら自然にそうなるものだろっ!」
玲生の執拗な問いかけが煩わしくなったのか、少年は思わず怒鳴っていた。
はっとしたように赤面して口元をおさえる。
人形のような表情から人間のそれに変わる。
玲生はほっと安心したように微笑む。
「いつか名前で呼び合う日が来るなら、俺は今日からがいい。君はどうしても名前で呼ばれるのは嫌かい?」
「別に呼び方なんかどうでも…いいです。」
「ごめん、別に君を怒らせるつもりはなかったんだ。ただ、君の様子があまりにも弦音と違っていたから。なんか無理してるのかな…と。」
少年は驚いたように玲生を見る。
「弦音?あなたも弓をひくんですか?」
意外だと言わんばかりにたずねられ、玲生は苦笑した。
「これでも以前はやってたよ。今はやめてるけど。」
「どうしてですか?こんなに立派な弓道場があるのに。」
何気ない問いに、玲生の表情がわずかに曇る。
「三年前にちょっと…ね。じいさんも俺も弓をひくのやめたんだ。」
玲生は穏やかに言葉尻を濁したが、そこには人に触れられたくない何かがあった。
少年ははっとして口をつぐむ。
「すみません。矢取りに行きます。」
的場に向かう少年の後を玲生が追う。
「じいさんはもう部屋を案内したかな?」
「いえ、まだですけど。」
「それなら、稽古はそろそろ終わりにしないかい?これからはいつでも好きなときに稽古できるんだから。」
玲生は気まずさを拭いさるように明るく言うと的をかたづけはじめた。
少年は無言でそれを手伝った。

 玲生の家の弓道場は外からの入口とは別に渡り廊下で母屋とつながっている。
弓道場から戻ってきた二人に気づいて、玲生の祖父が居間から顔をのぞかせる。
「何だ、玲生。おまえ帰っておったのか。あれほど早く帰れと言うておったのに、遅くなりおって。瑞希くんはとっくに来ておるぞ。」
「知ってるよ。こうやって弓道場から一緒に来てるんだから。」
叱責する祖父の徳衛(とくえ)には構わずに、玲生は小声で瑞希に話しかける。
「うちのじいさん、顔つきは厳いかめしいけど、中身は全然違うからね。瑞希が来たのが嬉しくて仕方がないんだ。」
「僕が来たのが…嬉しい?」
瑞希はその言葉の意味を推し量るように呟く。
「そう、俺とじいさんにこの家は広すぎるし、いつも俺みたいに生意気なのじゃなくて、もっと素直で可愛い孫が欲しかったって言ってたから。」
玲生の言葉に瑞希は無愛想にこたえる。
「僕は別に可愛くなんかありません。」
玲生は困ったように溜息をつく。
「そういう意味で言ったわけじゃないんだけど、気を悪くしたのなら謝るよ。」
「何をこそこそ話しておるか。瑞希くん、そいつには構わず、こちらにおいで。」
二人がなかなか来ないのに焦れて、徳衛が瑞希を呼ぶ。
二人が居間に入り、瑞希が座ると徳衛はたずねた。
「吉岡範士はお変わりはないかね?」
徳衛の問いに瑞希の顔に陰がさす。
「僕がこちらに伺う少し前にお身体の具合が悪くて入院されたのですが、ご本人は心配することはないとおっしゃって、いたってお元気でした。ですから、直接ご挨拶することができなくて申し訳ないと、先生によろしくとおっしゃっていました。」
「そうかね。しかし、昔から丈夫な人だったからの。儂が風邪をひいたときなど、よく軟弱者呼ばわりされたものさ。」
徳衛は心配そうに肩を落としている瑞希を元気づけるかのように明るく言った。
「ところで瑞希君、儂のことは先生ではなく、おじいさんと呼んでくれんかね。弓道を指南するわけではなし、今日からは同じ屋根の下に住む家族みたいなものだからの。先生と呼ばれてはこそばゆくていかん。」
徳衛はにこにこと笑っている。
その様子は言い方の違いはあるにしても、先程の玲生とそっくりだった。
瑞希は向かいに座っている二人を見比べて、懸命に笑いを堪こらえていた。
徳衛は瑞希の様子に首を傾げているが、玲生は苦虫を噛み潰したような顔になる。
心外とばかりに、祖父にむかって憎まれ口をきく。
「おじいさんなんて可愛い代物かよ。爺で十分だ。」
玲生の言葉に徳衛が言い返す。
「儂が爺ならおまえは小僧だな。」
玲生は祖父の言葉は聞こえないふりをして瑞希を見る。
笑いを堪える表情が好ましかった。
こんなにいい表情を持っているのにと、玲生は感嘆する。
しかし、瑞希は気を取り直すと、再び堅苦しい態度に戻ってしまう。
「失礼しました。お二人があまりに似ておられるのでつい。」
「構わんよ。この不出来の孫が儂に似ているとは思わんがね。」
徳衛は茶目っ気たっぷりに片目をつぶってみせた後、まじめな顔になって話題を変えた。
「さて、家の案内は後で玲生に任せるとして、弓道の稽古のことだが。儂は久しく弓道を教えておらんので瑞希君には高校の弓道部に入ってもらう事になるよ。家の弓道場はいつでも好きなときに使ってもらって構わんがね。」
徳衛の言葉に瑞希の眉がぴくりと動く。
「お言葉ですが、僕はクラブ活動で弓道をするつもりはありません。先生にご教授いただけなくても、こちらの弓道場で一人で稽古します。」
徳衛は瑞希の言葉に機嫌を損ねるでもなく微笑した。
「確かに瑞希君には学校弓道は合わないかもしれないが、『射即人生』ともいう。人と息を合わせる事も学ばねばならんよ。それに一人で稽古をするのはよろしくない。せっかく吉岡範士のご指導で身についた綺麗な型が崩れてしまうよ。」
徳衛の話し方は優しいものだったが、瑞希に反論する事は許さなかった。
「さあ、玲生、瑞希君を部屋に案内してあげなさい。あ、それから瑞希君、儂のことはじいさんだよ。じいさん。」
祖父に言われて先に立った玲生の後に、瑞希はまだ納得しかねる顔つきでついていった。
「ここが台所で、こっちはじいさんの部屋。階段の横が洗面所と浴室。トイレは階段の向こう。瑞希の部屋は二階だよ。」
玲生は家の中を案内しながら階段を二階へと向かう。
瑞希は黙ったまま後についていく。
「突き当たりが俺の部屋で、あそこも洗面所。手前の洋間が瑞希の部屋。置いてある家具は自由に使ってもらって構わない。荷物は部屋に入れてあるけど、荷解き手伝おうか?」
瑞希は押し黙ったまま返事もしない。
玲生は苦笑しながら瑞希にたずねた。
「弓道部に入るのがそんなに納得いかない?」
「僕は段をとったり、競技会にでるために弓道を始めたわけじゃありませんから。」
瑞希はフローリングの床を見つめている。
端正な横顔に長い睫毛が影をおとしていた。
「それじゃあ、どうして弓道を始めたんだい?」
瑞希は玲生に冷たい視線を向けた。
「そんなことを君に言う必要がありますか?」
玲生は軽く肩をすくめてみせる。
何気なく視線を向けた窓の外は陽が傾きつつあった。
「瑞希に無理強いをするつもりはないんだけど、じいさんの言うことも正しいような気がする。でも、決めるのは瑞希だから。じいさんも瑞希がどうしても嫌だって言えば無理にとは言わないよ。それじゃ、俺は夕飯の仕度するから。」
「僕、何か手伝いを…。」
言いかけた瑞希を制して玲生が言う。
「今日はいいよ。夕飯できたら呼ぶから、それまで荷物を片付けるといい。」
そう言いながら玲生は階下へ降りていった。

 玲生の家は東京郊外の住宅地にある。
東京とはいっても道端で野菜を売っているようなのどかなところだ。
近くを玉川上水が流れ、それに沿って自然遊歩道になっている樹林が続く。
野鳥が飛び交い、豊かな自然が四季折々に目を楽しませてくれる。
高校の入学式が終わる頃、上水の桜は染井吉野から八重桜へと移り変わり、遊歩道の樹木は若葉の薄い緑に覆われる。
清流には何年か前に放流された鯉が金鱗・銀鱗をきらめかせ、橋を渡る人の目を喜ばせている。
玲生達の通う高校は家から歩いて二十分、その風光明媚な上水の辺に位置する大学付属の私立の男子校である。
 入学当初、玲生が家事を理由に何も部活をしないと知ると、瑞希も弓道部に入部しないと言い出した。
しかし、結局は徳衛に説得されて弓道部に落ち着いた。
瑞希は徳衛に対して従順だった。
弓道の師として尊敬するのは当然としても、それだけが理由ではないようだ。
徳衛は最初から瑞希を実の孫の玲生と同じように扱っている。
飄々とした人柄が瑞希の心を和らげるのか、瑞希の方も徳衛に孫のように扱われることを嫌がる様子はない。
むしろ孫の玲生が回避している囲碁の相手や、盆栽の話にまで根気よく付き合っている。
それだけでなく、いつの間にか徳衛のことを『先生』ではなく、『おじいさん』と呼ぶまでになっていた。
玲生の方は相変わらず『世話になっている家の孫息子』という存在でしかなかったが。
それでも瑞希は玲生の家には馴染んでいるほうだった。
 学校での瑞希はそうはいかなかった。
クラスの違う玲生には詳しく知りようがないが、耳に入ってくる噂は芳しいものではない。
入学してから日が経つにつれ、瑞希は孤立していくようだった。
教室でも校庭でも、玲生は一人でいる瑞希の姿をよく見かけた。
特に弓道部での他の部員との反目は激しいらしいが、瑞希が学校や弓道部の練習をさぼるようなことは一度もなかった。
一人でいることを気にする様子もない。
瑞希はむしろ孤独でいることを望んでいるようだった。

 今日も夕食後、瑞希は一人で家の弓道場で稽古をしている。
夜風が花の香りを運んでくる気持ちの良い春の夜だった。
しかし、先程から瑞希の弦音は冴えない。甲矢(はや)が鈍い音をたててあずちに刺さる。
「退く胴、上がり筈、右肩に力が入りすぎだよ。」
射位で残心を終えて立っている瑞希の背中に向かって玲生は言った。
「な…」
振り向こうとした瑞希を制して玲生は続ける。
「行射を途中で乱すな。何も考えずに乙矢をつがえろ。」
(乱しているのは貴様じゃないか。)
瑞希は心の中では文句を言いながらも乙矢をつがえた。
足踏みから胴造りへ流れるように行う。
玲生は行射を行う瑞希に向かってのんびり話しかけた。
「今日は月が綺麗だ。花の香りのする空気もいい。弓をひくにはいい季節だな。」
(人が行射を行っているときに何を暢気なことを。)
瑞希は反感を覚えつつも、つい深呼吸してしまう。
(本当にいい香りがする。何の花かな?)
物見をかえす視野に美しい満月が映る。
自然に肩から力が抜ける。
打起しから引分け、会へ。
たん!
的の真心を乙矢が貫く。
残心を終えた瑞希が信じられないといったように玲生をふりかえる。
玲生は素知らぬ顔でゆっくりと射場の端に腰掛けながら言った。
「学校の弓道部、あまりうまくいってないようだな。この頃、瑞希の弦音がちっとも冴えない。」
瑞希は弓を弓立に立てかけると玲生の方にやってきた。ゆがけを外すと玲生の隣に腰掛ける。
「うまくいくわけがない。最悪だ。」
玲生は驚いて瑞希を見る。
いつもの瑞希なら必要な返事だけして無視するところだ。
「弓道部は体育会系の奴ばかりだ。特に二年の雨宮という三つ子の兄弟は最悪だ。先輩に対する礼儀はうるさく言うくせに、当たりばかり重要視して射品なんて欠片もありはしない。」
よほど弓道部では我慢をしているのか、瑞希にしては珍しく饒舌になっている。
玲生はなだめるような口調で言った。
「でも顧問の先生はじいさんの教え子だから、丁寧に指導してくれるだろ?」
「先生はね、きっちり指導してくれる。でも毎日稽古を見てくれるわけじゃない。君は学校の弓道部に入ったことがあるか?」
「いや、ない。市立の中学には弓道部なんてなかったから。」
「僕達一年はまだ巻藁練習と矢取りしかさせてもらえない。後は当たりの○×書きだけだ。型すらまともにできてない奴が二年というだけで的前に立っているというのに。それだけならまだ許せる。耐え難いのは看的で当たる度に『射』と叫ばされることだ。声を張り上げすぎて裏がえっているのなんか、聞くに耐えないぞ。」
瑞希の批判は正直で、自然に辛辣にもなる。
玲生は何といってなだめたものか、思案に暮れる。
また、弓道部での瑞希の様子が想像つくだけに、可笑しくもある。
しかし、ここで笑ってはまた瑞希を怒らせることになるので必死に堪こらえる。
「それでも毎日よく我慢して部活に出ているな。」
「おじいさんが俺に学ばせたいものがあるはずだと思うからだ。それに我慢するのも精神修養の一つだと思っている。」
瑞希はまっすぐに月を見つめた。
月の光が琥珀色の瞳に映りきらめく。
その輝きは意志の強さをあらわしていた。
綺麗な顔立ちなのに軟弱に見えないのはその眼差しのせいだ。
「稽古続けろよ。俺が矢取りするから。じいさんほど年季は入ってないけど、型の崩れくらいは見てとれるよ。それとも、俺がいたら気が散って行射できない?」
玲生は立ち上がり、瑞希に右手を差し出した。
一瞬ためらった後、瑞希は差し出された手を取り、挑むように立ち上がった。
「そんな柔な精神はしていない。お願いする。」
この日から瑞希が家の弓道場で稽古するときには玲生もつきあうようになった。
しかし、玲生自身が弓を手にすることは一度もなかった。

 高校に入学して二ヶ月が過ぎようという日曜日、玲生はビルの二階にある喫茶店で時間を持て余していた。
ガラス越しに街を行き交う人々を眺めている。
おそらく今頃はこの街のどこかにいるであろうはずの人物を人混みの中に見出すことができはしないかと期待しながら。
しかし、そんな偶然は奇跡でもない限りありえないことは玲生も承知していた。
まわりの席では待ち合わせの人々が入れ替わり立ち替わり落ち合っては休日の街に消えていく。
玲生だけがその場にぽつんと取り残されていた。
(こんな所で瑞希の姿を探してる俺って馬鹿みたいだ。)
玲生は大きく溜息をついた。
玲生は瑞希ともっと親しい友人になりたいと思う。
弓道の稽古につきあっているときは、それなりに会話もする。
瑞希の言葉使いもだいぶ砕けてきた。
しかし、あくまでも弓道の話題だけに限られている。
それ以外は必要最小限の返事しか瑞希はしてくれない。
名前で呼んでくれる日など永遠に来ないような気さえする。
たかが名前の呼び方とはいえ、祖父は『おじいさん』と呼ばれているのに、自分は『弓家君』では釈然としないものがある。
しかし、嫌われているわけではないようだ。
学校での瑞希の態度を考えれば、玲生への接し方などましな方と言える。
だからといって何が変わるわけでもないのだが、考えると気が滅入ってくる。
玲生は再び外の風景に目をやった。
 眼下に広がるのはありふれた渋谷の街。
もうすぐネオンの灯りが華やぎはじめる時刻だ。
いいかげん帰ろうかと立ち上がりかけたとき、玲生の注意をひくものがあった。
やや薄暗い路地で何やら柄の悪い連中が一人の少年を取り囲んでいる。
道行く人々は誰一人として注意を向けようとはしない。
かかわり合いになるのを避けて、足早に遠ざかる。
玲生はその中に探しもとめていた人物を見つけた。
瑞希が不良っぽい少年たちに何やらからまれている。
瑞希はいつもの無表情で恐れる様子もなく、まるで相手にしようとしていない。
ひときわ柄の悪そうな少年の手に遠目にもナイフとわかるものが握られた。
瑞希を脅そうというのか、その鋭利な輝きが瑞希の頬に押しあてられる。
(瑞希!)
玲生は会計をするのももどかしく店を飛び出していた。
二階の窓から見えていたあたりに大急ぎで行く。
しかし、そこで玲生が目にしたものは、まるで武道の演武のように五・六人の相手を軽くあしらっている瑞希の姿だった。
玲生は出番無しと見て、しばらく傍観を決め込んだ。
そのうち、少年達の内の二人が瑞希を後ろから抑え込んだ。
二人がかりで同時にしがみつかれては瑞希もさすがに簡単にはふりほどけない。
先程の少年がナイフを手に瑞希に近づく。
「女みたいな顔しててこずらせやがって。」
ナイフが瑞希の頬を切り裂こうとした瞬間、玲生がその手を捻りあげた。
「一人を相手にこんなもの使うなんて卑怯だぜ。ほら、ナイフを離さないと手が折れるぞ。」
玲生の声は容赦がなく冷たかった。
捻りあげた腕に力を込めると、少年は情けない悲鳴をあげてナイフを落とした。
その様子に気を取られ、瑞希を押さえつけていた二人の手が緩む。
その隙を逃さず、瑞希は二人の少年の拘束から逃れた。
自然に玲生と瑞希は背中合わせの形になる。
「誰も助けてくれなんて言ってないぞ。」
「でも、二人の方が早くかたづくと思うぞ。」
玲生と瑞希は示し合わせたわけでもないのに、ぴたりと息の合った立ち回りを見せた。
そして、玲生の言葉通り、数分後には少年達はお決まりの言葉を残して立ち去っていた。
「おぼえてろよ!」
喧嘩というには一方的すぎる妙技でそれは終わった。
瑞希は涼しい顔で買ったものらしい紙袋の埃をはらっている。
玲生は驚きを隠しもせずに瑞希に声をかけた。
「見かけによらず強いね。他の武道もやってたんだ。」
「べつにどうってことはない。ただ、『見かけによらず』というのは取り消してもらおうか。それを言うなら君の方がよっぽど見かけによらずだ。優しい顔して、やることが怖い。あいつの腕を本当に折るかと思ったよ。」
瑞希は不機嫌そうな、しかし、照れくさそうでもある複雑な表情で笑った。
「それじゃ、俺はもう帰るけど、君は?」
瑞希は既に駅に向かって歩きだしながら言った。
玲生は一瞬その背中を見つめて笑顔になる。
「俺ももう帰るところだったんだ。」
玲生は瑞希に追いつくと横に並んで歩き始めた。

 気象庁が梅雨明け宣言をして晴天が続いたある日、瑞希は学校からの帰り道、本屋の店先で立ち往生していた。
空は墨を掃いたような暗い雲に覆われ、大粒の雨が道路と街路樹の埃を洗い流していく。
渇水が囁かれる夏日とあっては恵みの雨には違いないが、傘を持っていない者にとっては運が悪いとしかいいようがない。
本屋から家までは十分くらい。
濡れて帰れないことはないが、瑞希には弓と矢筒があった。
他のほとんどの弓道部員は弓矢を学校の弓具室に保管している。
しかし、瑞希は弓家の家でも稽古をするので毎日持参している。
竹製の弓と矢を濡らすわけにはいかない。
そういう意味では傘があっても何の役にもたたない。
傘をさしただけでは弓と矢筒が濡れてしまう。
学校のロッカーには弓と矢筒のレインカバーが常に置いてあるのだが、ここまで来てしまってはどうすることもできない。
瑞希は大きく溜息をつく。
(こんなことなら寄り道しないで帰ればよかった。)
瑞希の視界に公衆電話の若草色が映る。
部活をしていない玲生は既に家に帰っているはずだ。
電話で頼めば、雨具を持ってきてくれるに違いない。
けれどそれは何となく躊躇われた。
瑞希はすぐには止みそうもない雨を恨めしげに見ながら、玲生の家に下宿してからの出来事を思い返していた。
 弓家の家は瑞希を家族のように迎えてくれた。
それは瑞希にとって戸惑うものだった。
徳衛は厳しくて優しい。
瑞希を孫の玲生と同じように扱ってくれる。
自分の祖父があんな人だったらどんなに良かっただろうと瑞希は思う。
そして玲生。
最初は女のように長い髪をして、胡散臭くさい奴だと思った。
馴れ馴れしい態度も軽薄だと思った。
けれど、そうでないことは玲生を知るうちにわかってきた。
単に人懐こいだけだった。
瑞希とは正反対の穏やかな性格。
勉強も運動神経も並外れている。
男として負けたくないと思う。
それと同時に憧れずにはいられない。
そうありたいと願う自分の理想を重ねて。
そして、何よりも戸惑う。
どんなに冷たく突き放しても、変わらずに示される無条件の好意に。

 瑞希は再び公衆電話を見つめた。
電話をしようかと思ったそのとき、傘をさした人影が瑞希に声をかけた。
「瑞希、ここにいたのか。」
突然、名前を呼ばれた瑞希は声の主に驚いた。
たった今、電話しようかと思っていた相手が目の前にいる。
走ってきたのか、名前を呼んだ人物は息を切らして立っている。
「急に降ってきたからな、困っているだろうと思って持ってきたよ。」
玲生は弓と矢筒のレインカバーを差し出した。
瑞希は驚いて玲生を見つめる。
「どうして…俺がここにいるのがわかったんだ?」
「いや、何となく。雨が降り出したのは学校をとっくに出てるはずの時間だったから途中の何処かだろうと。」
当然とばかりに玲生は笑った。
「ほら、早く弓にカバーかけろよ。俺が矢筒の方かけるから。」
瑞希はカバーを受け取ったまま、玲生を見つめた。
玲生は既に家に帰っていたので今は私服だった。
学校では後ろに束ねている長い黒髪が、頬から肩へと綺麗な流れを形作っている。
初めて会った日に反感を覚えたジーンズ姿が、今は好ましいものに感じられた。
「ありがとう、玲生。」
礼の言葉が自然にすべりでた。
今度は玲生が驚いたように瑞希を見る。
そして、次の瞬間その顔が宝物を抱えた子供のような笑顔になる。
「どういたしまして、瑞希。」
二人は傘を並べて家路についた。
たわいない会話と笑い声が雨音の中に消えていく。
明日の朝には雨も止むだろう。
冷夏続きのこの頃では、珍しくなった暑い夏が過ぎていく。

正鵠 序章

弦音(つるね)。
その音色を言葉で言いあらわすことは難しい。
矢を放った瞬間に発する弓弦の振動音である。
その音は千差万別、弓をひく人によって音色が違う。
それは弓をひく者の技量と人格を顕現する魂の響きであるから。

 玲生(あきらお)は息を切らしながら自宅の門をくぐった。
今日は早く帰るようにと言われていたのに、予定の時間はとうに過ぎている。
祖父の怒った顔が目に浮かぶようだ。
玲生が祖父の説教を覚悟しながら玄関の引き戸に手をかけたそのとき、厳かな音があたりに響きわたった。
歯切れの良い冴えた弦音。
聞き慣れた祖父の弦音とは違う。
何とも言えない心地よい響き。
玲生は家に入るのをやめると、その音に誘われるように自宅に隣接している弓道場へと足を向けた。
再び同じ弦音が玲生の鼓膜を揺さぶる。
祖父でなければ、誰が弓をひいているというのか。
思い当たる人物は一人だけ。
今日からこの家に下宿することになっている少年。
弓をひくとは聞いていたけれど、これほどのものとは思っていなかった。
繊細な中に強さを秘めた余韻の残る音色。
玲生は弦音を聴いただけで少年のひととなりすらもわかるような気がした。
行射の妨げにならないようにそっと弓道場に足を踏み入れる。
そこはいつものように厳粛な空気に満たされていた。
射位中央で一人の少年が行射を行っている。
引分けから会へ。
時間がゆっくりと流れていく。
矢道横の桜の花びらが風に舞い、弓をひく少年に纏いつく。
春の午後の柔らかな日射しが少年の身体を包み込む。
その光景は見事な日本画のように厳かな美しさを秘めていた。
ぱん!
小気味の良い音とともに矢は正鵠を射る。
残心は艶やかに咲き誇る桜の花のようだった。
その鮮やかなまでの印象は玲生の心に焼きついた。